大徳寺の南、下築山町の道路脇に牛若の母、常盤御前が用いたといわれる井戸があるのだが、今はそれも涸れ果てて、その名残を知る由もない。

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民家の庭先にひっそりとあるのが「常盤井」である。

この辺りに源義朝(1123~1160)の屋敷があったとされ、そこに義朝の妾である、常盤御前が住んでいたと言い、その時輪が用いた井戸がこれであったという。

以前は京の名水の一つに数えられていたというが、今はその名残はない。

ここが常盤の井と分かるのは、寛文12年(1672)に建てられた常盤井としるされた石碑が建っているからである。

その石碑には、

『清水宗善誌之/常盤井

願以此功徳/平等施一切/同発菩提心/往生安楽国

寛文十二壬午歳十月十五日』と、観無量寿経からとられた一節が刻まれている。

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常盤御前は、平安時代末期を生きた女性で、源義朝の側室である。

義朝との間に、今若、乙若、牛若の三人の子をもうけるが、後に鎌倉幕府を開く義朝の三男、頼朝とは腹違いの兄弟であり、これが後々におおきな禍をもたらすのであるのだが・・・

義朝が平治の乱で、平清盛に敗れると23才の身で三人の子供を連れ、大和に逃れようとするのだが、

伏見で捕縛され(一節には、母が捕えられて自ら出頭したともいう)京の六波羅の清盛の前に引き出される。

常盤はそこで、三人の子供の助命を願うのだが、その時に清盛が常盤の美しさに心惹かれ、助命をしたというのだが、

これはその前に、頼朝がすでにその命を助けられ、伊豆に流されていることから、この三人も命まではとらなかったのだという。

これも清盛の誤算で、頼朝の流された伊豆の韮山は、絶海の孤島でもなく、陸続きの所だったのである。

伏見には常盤御前が三人の子を連れて山とに逃げた時に、捕縛されたという跡に石碑が建っていて、この後は、京都駅まで戻り、伏見の「常盤捕縛の跡」を訪ねてみることにする。