| 南禅寺の境内を流れる水路閣は、琵琶湖疏水の分線と呼ばれるもので、け上げの船溜りから分岐をし、疏水の本流と分かれ、哲学の道から松ケ崎浄水場へと流れてゆくのである。 |
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| 蹴上から疏水分線に沿って歩くと、その先は南禅寺へと続くのだが、実は8年前に南禅寺を訪ねた時には、この疏水べりを通り、南禅寺へと向かったのだが、その時の思いが、 | |
| 『この橋を渡り、少しの広場があっていよいよ疏水べりのプロムナードを歩くことになるのだが、歩き始めは右に疏水が流れ、左は小丘があってこの道が南禅寺まで続いているものだと思って歩き始めた。 |
| ところが歩いていくと、左側は崖っぷちになっていて木々は繁ってしるものの一歩足を踏み外すとはるか下まで転げ落ちてしまう道となってしまった。 |
| 道幅は人が二人並んで歩けるかどうか位の広さとなり、左をみればはるか下に建物が見え、高い所が恐い自分には足が震えながらも、引き返す事も出来ず、ゆっくりと歩くしかなかった。 |
| さいわいに誰も通ってなく一歩一歩を冷や汗をかきながら歩いて行くことが出来た。 |
| 誰か向こうから来たら、すれ違いの為に立ち止まって先に行ってもらうしかなかったと思う。それも疏水のほうに寄ってである。 |
| そんなこんなで本当は森林浴をしながら疏水べりのレンガが敷かれたプロムナードを、ロマンティックな気分にひたりながら歩くはずだったのだが、いやはやとんだ目に遭ってしまった。 |
| しかし高所恐怖症でない方は、この歩いて数分の疏水べりのプロムナードはきっと、ひと時の安らぎをもたらしてくれるものと思う。』 |
| とあり、狭くて高い道を恐々歩いたとの思いが綴られている。 |
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| 疏水分線は、南禅寺の境内を古代ローマ橋を思わせるような、レンガ造りのアーチ橋の上を流れてゆく。 | |
| 明治の時代に、このような建築物が出来たのは田辺朔郎という、若い優秀な技術者とそれに任せようという、 |
| 京都府知事の北垣国道の太っ腹、今では考えられないし、また今の大学生では、そんな力もなく、こんな重圧には耐えられず、すぐに逃げ出してしまうだろう。 |
| 明治という時代の中で、大学出の人間は日本を担うエリートだという自負のもとに、その責任の重さゆえに、この一大事業が完成したのであろう。 |
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| 疏水分線は、蹴上から南禅寺境内の水路閣を通り、若王子橋から始る「哲学の道」に沿って北に流れてゆく。 | |
| 京都の川の殆どは、北から南へと流れてゆくのだが、疏水分線は人工に造られた川ゆえに、それに逆らって、南から北へと流れてゆき、 |
| 哲学の道を銀閣寺に流れ、北白川、一乗寺と北上して、高野川を横切り、鴨川をも横切って松ケ崎浄水場へと流れてゆくのである。 |
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