南禅寺は、正応4年(1291)に亀山上皇が離宮を禅刹に改めたもので、京都五山の最高位の寺である。

境内には、勅使門、三門、法堂、方丈が東西に一直線に並び禅宗別格の風格を漂わせている。

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南禅寺は、今を去ること700有余年前に、亀山天皇がここに離宮を造ったことが起源となる。

正応4年(1291)に天皇から上皇になったときに、大明国師(無関普門)に帰依し、離宮を寺に改めて「禅琳禅寺」と称したが、正安年間(1299~1301)に「南禅寺」と改められた。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし建武の中興をなした、建武元年(1334)に京都五山の第一位に除せられたが、

室町幕府3代将軍の足利義満が「相国寺」を建立すると、義満は相国寺を第一位とすべく、南禅寺を五山の上の別格とし相国寺を第一としたのである。

(義満の死後に、天龍寺が第一位隣、相国寺は第二位となるのだが、南禅寺は別格としたままとなった)

室町時代には塔頭子院が62院もあり、僧侶も千人を越え、五山文学の中心として栄えたのだが、

比叡山僧徒の焼討ちや応仁の乱で多くの堂塔伽藍は焼失してしまうのだが、

その後、慶長11年(1606)豊臣秀頼が仏殿を再興し、金地院の以心崇伝が徳川家康の信を得て伽藍の再建をなしている。

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三門の奥には方丈が建ち、大方丈と小方丈とにわかれ、

大方丈は天正年間(1573~1592)に豊臣秀吉が寄進した御所の清涼殿を、慶長16年(1611)に移築したもので、単層、入母屋造、杮葺の建物である。

内部の襖絵、花鳥図の「白梅金鳥図」は狩野元信で、人物画の「中国宮廷図」は狩野永徳の筆になる、桃山時代の作である。

大方丈のうしろ右側の小方丈は、秀吉が建てた伏見桃山城の建物をここに移築したもので、

狩野探幽が画いたという、金地に竹林群虎の図のなかの、「水呑の虎図」は有名である。

また慶長の頃(1596~1615)に、小堀遠州が造ったという枯山水の庭がり、虎子渡の庭園とも呼ばれる方丈庭園がある。

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方丈の南には、疏水橋がある。いわずと知れた、琵琶湖疏水で、赤煉瓦の大きなアーチ橋が、南禅寺の境内を横切って流れている。

今では神社の境内にこんなものを通すといえば、賛否両論が起り、いいテレビのネタになるのだろうが、

この時代は有無を言わせずに、というか南禅寺も京都活性化に力を貸したのであろうか。