三条通から、インクラインの下の「ねじりまんぽ」をくぐると、南禅寺の塔頭である「金地院」がある。

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金地院は、明智光秀が生き残って以心数伝となって、徳川家康に取入って「黒衣の宰相」となって、徳川家を裏で動かしたという人物が住んだ寺として知られている。

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金地院は、

『臨済宗南禅寺派に属する。応永年間(1400年頃)、足利義持の帰依を得た、

南禅寺68世大業徳喜(だいごうとくき)が京都北山の鷹ケ峯に開いたのが当寺の起こりであるが、

江戸時代の初め慶長10年(1605)、以心崇伝がこの地に移して再興した。

崇伝は徳川家康の信任を受けて、天海僧正らと共に幕議に参画し「黒衣の宰相」と呼ばれた。

巣伝はまた僧緑司となって宗教界全体を取締り、宗教界の人事・行政を司った。以後幕末まで当寺は僧緑司の地位にあった。

寛永3年(1626)に、後水尾天皇から円照本光国師の号を特賜された崇伝は、翌年、金地院の大改築に着手して現在の寺観を整えた。

「方丈」(重要文化財)は伏見城の遺構と伝えられ、杮葺き入母屋造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。

茶室「八窓席」は小堀遠州の設計で、三畳台目の遠州流茶席として有名である。

「鶴亀の庭」と称される方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を有する唯一の庭園で、寛永9年(1632)に完成した名園である。

境内の「東照宮」(重要文化財)は寛永5年(1628)の建築で、地方の東照宮の代表的なものである。

このほか、寺宝として水墨画の名品など多くの文化財を蔵している。』

               出典:【金地院の駒札・金地院の沿革】より