良正院の前には知恩院の黒門があり、ここから知恩院の境内に入ることも出来るのだが、ここは知恩院の正門である三門から入るのが筋だと思い、三門へと向かうことにした。 |
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途中、崇泰院の門前に「本願寺発祥之地/蓮如上人御誕生之地/親鸞上人旧御廟所/元大谷崇泰院」と刻まれた、小さな石碑が建つ。 |
この地は、親鸞上人(1173~1262)が弘長2年(1262)に入寂して後、末娘の覚信尼(1224~83)が文永9年(1272)に、 |
ここに堂宇を建て、親鸞の遺骨を安置した場所であり、江戸時代に東山五条坂の大谷本廟に移ったことから、ここを「親鸞上人旧御廟所」という。 |
親鸞上人を祀った堂宇は、内紛により壊されるのだが、三世覚如(1270~1351)が再建し、専修寺と号したのが本願寺の始まりで「本願寺発祥之地」とされる由縁である。 |
そして本願寺8世の蓮如(1415~99)がここで産まれたことから「蓮如上人御誕生之地」とされている。 |
またここは崇泰院の地で、慶長8年(1603)に、徳川家康が母於大の方(傳通院殿)の菩提を弔うために、 |
知恩院の再興を図り、その時の再興奉行だった竹村丹後守九兵衛道清により崇泰院が建立される。 |
その後、荒廃をするのだが、明治31年(1898)に庫裏が、34年(1901)に本堂が再建され今に至っている。 |
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この碑と合わせ門前には、もうひとつ「蓮如上人御誕生之地」の石碑が建つ。 |
蓮如は本願寺8世の門主で、本願寺中興の祖と呼ばれている。 |
蓮如が8世の座に着いたころは弱小で、寺院としては青蓮院の末寺まで落込んでいた。 |
寛正6年(1465)には、比叡山延暦寺により大谷本廟(この崇泰院の親鸞上人旧御廟所)が打ち壊されて、 |
越前吉崎にて布教活動を行うようになり、吉崎御坊を建て大いに発展をする。 |
これを足掛かりに、文明13年(1481)に山科の地に、本願寺を再建する。その後、隠居所として大坂に石山御坊を建てるが、 |
後にここが石山本願寺として、織田信長と10年に亘り戦をするのだが、この時にはそれは知るよしもない。 |
蓮如は生涯5人の妻を娶り、男子13人、女子14人の子供をもうけるのである。9世の門主は、第2夫人が産んだ5男の実如が跡を継ぐのである。 |
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