戦友の碑が建つ所にあるのが「良正院」である。 |
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良正院は知恩院の塔頭で、徳川家康の次女・督姫の菩提を弔うために、岡山藩主・池田忠雄が建てたものである。 |
門前の説明板によれば、 |
『知恩院の塔頭。岡山藩主池田忠雄公の母、良正院殿(徳川家康公の娘とく姫、池田輝政公夫人)の追福の為、 |
徳川秀忠公の許を得て宗把和尚を開基として寛永8年(1631)建立された。廊下は鶯張りで金箔襖絵は三益と伝えられる。 |
本堂表門は昭和61年5月国の重要文化財の指定を受ける。勤皇の志士奥田萬次郎氏が自刃したのは、竹の間である。』 |
出典:【良正院の説明板】より |
とあり、徳川2代将軍・秀忠の許しを得て池田忠雄が母の追福の為に建てたのだという。 |
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徳川2代将軍・秀忠がそれを許したのは、池田輝政の妻、忠雄の母であった督姫は、徳川家康が最初の側室に産ませた子供で、2代将軍・秀忠とは異母兄弟となる。 |
徳川家康は豊臣秀吉と違い多くの子を産ませるのだが、それが後々に様々な出来事を起こすのだが・・・ |
督姫は19才で北条氏直のもとに嫁ぎ、一男二女をもうける。 |
後に秀吉の小田原攻めで北条氏が滅び、氏直が高野山に流されたのに着いてゆくのだが、氏直がその地で亡くなると、 |
秀吉は督姫を池田輝政に嫁がせた。督姫はよく出来た女子で、輝政との夫婦仲はよく、五男二女をもうけ51才で亡くなると、 |
子の忠雄が宗把和尚を開基として「良正院」を建て、その菩提を弔ったのである。 |
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