瓜生石のある三叉路の北の角に良正院があるのだが、その門前に、肉弾の作者桜井忠温大佐が揮毫した「ここはお國を何百里」と刻まれた大きな石が建っている。



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「ここはお國を何百里」と言われても、何のことやら分からない人は多いと思うのだが、これは明治38年(1950)に、作詞・真下飛泉、作曲・三善和気によって作られた軍歌「戦友」の歌い出しである。

離れて遠き滿洲の赤い夕陽に照らされて友は野末の石の下」と続き、14番まで歌われる。

この歌は日露戦争(明治37年2月~38年9月)の最中に作られて流行ったのだが、昭和12年(1937)に中国との間に日華事変が起きると、
「戦友」は厭戦的な歌だとして、歌うことが禁じられたが、その後の太平洋戦争でも、兵隊のあいだでは歌われていたようである。


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「戦友」の歌詞を意訳してみると、

此處は御國を何百里離れて遠き滿洲の赤い夕陽に照らされて友は野末の石の下
(日本を遠く離れた満州で、戦友は粗末な墓石の下に眠っている)

思へば悲し昨日まで眞つ先驅けて突進し敵を散々懲らしたる勇士は此處に眠れるか
(昨日まで勇敢に戦った勇士はここに眠っている)

嗚呼戰の最中に鄰に居りし我が友の俄にはたと倒れしを我は思はず驅け寄って
(思えば隣に居た戦友が、戦の最中に撃たれて倒れたのを見て)

軍律嚴しき中なれど是が見捨てゝ置かれうか確り(しっかり)せよと抱き起し假繃帶も彈丸の中
(厳しい軍律だが、ほってはおけず「しっかりせよ」と弾の飛び来るなかで包帯を巻く)

折から起る吶喊(とっかん)に友は漸う(ようよう)顏上げて「御國の爲だ構はずに後れて呉れな」と目に涙
(折りしも突撃の命に、戦友は目に涙をうかべて「お国の為に、自分に構わず遅れるな」)

後に心は殘れども殘しちやならない此の體(からだ)「それぢや行くよ」と別れたが永の別れとなつたの
(心は残るが、「それじゃ行くよ」と戦友を残したが、それが永遠の別れとなった)

濟んで日が暮れて探しに戻る心ではどうか生きて居て呉れよ物等言へと願ふ
(戦いが終わり、一縷の望みを抱いて戦友を探したが)

空しく冷えて魂は故鄕(くに)へ歸つたポケットに時計許り(ばかり)がコチコチと動いて居るも情無や
(その魂は故郷へ帰り、ポケットには時計の音が寂しく鳴るばかりである)

ここから情景が変わり、戦友との出会いを回顧する場面となる。

思へば去年船出して御國が見えず爲つた時玄界灘で手を握り名を名乘つたが始めにて
(去年に日本を発ち、玄界灘で互いの名を名乗り合ったのが出会いである)

それより後は一本の煙草も二人で分けて喫み(のみ)着いた手紙も見せ合ふて(おうて)身の上話繰り返
(それからは、煙草も分け手紙も見せ合って、身の上話も語り合った)

肩を抱いては口癖にどうせ命はないものよ死んだら骨を頼むぞと言い交はしたる二人仲
(いつも戦友とは、捨てる命であり死んだら骨を拾ってくれと、言い交わした中である)

思ひもよらず我一人不思議に命永らへて赤い夕陽の滿洲に友の塚穴掘らうとは
(思いもよらず一人生き残り、満州の広野に、戦友の墓穴を掘ることになった)

隈無く晴れた月今宵心染み染み筆執って友の最期を細々と /親御へ送る此の手紙
(月明かりで戦友の最期を綴った手紙を国の親御に書き)

筆の運びは拙いが行燈(あんど)の陰で親達の讀まるゝ心思ひ遣り思はず落とす一雫
(上手くは書けないが、行燈の下でこの手紙を読む親の心を思うと、思わず涙がこぼれてしまった)