相国寺の法堂の初建は明徳2年(1391)になり「雷音堂」と称せられる。

その後、数々の焼失の後に、徳川家康が豊臣の財力を減らそうと豊臣秀頼に寄進をさせ、

慶長10年(1605)に再建されたもので、法堂の建物としては日本最古のものとされている。

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現在の法堂は、慶長10年(1605)に再建されたもので、正面28.72m、側面22.80mの大きさで、日本最古のものである。

相国寺の法堂は、明徳2年(1391)に創建されてから4度の火災にあっている。

一度目は、伽藍創建の2年後、応永元年(1394)に、二度目は、応永32年(1425)に、

三度目は、応仁元年(1467)の応仁の乱にて、四度目は、戦国時代の天文20年、三好長慶と細川晴元との戦いで、堂塔伽藍は全焼をする。

その後、西笑承兌(さいしょうじょうたい)が復興するのだが、天明8年(1788)の大火によって、法堂以外のがらんは焼失してしまうのである。

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相国寺を発願した足利義満とは、室町幕府の3代将軍で、それまでの有力守護大名を悉く押さえて、南朝の勢力を弱らせて、

南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器(八尺の勾璁(やさかのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ))を渡し、

南北朝の統一を果たすと共に、鹿苑寺金閣を建て、足利政権の絶頂期を築いた人物である。

義満が北小路室町に屋敷を移したことから、室町殿と呼ばれることとなり、足利政権が室町幕府と呼ばれるようになったと言われる。

また、足利義満は一休禅師を屋敷に招き教えを乞うたといい、このことから、一休さんとの逸話が生まれ、

ある時、魚を出し一休がそれを食べると「僧侶が魚を食ってもよいのか」と訪ねると、「喉はただの通り道、何でも通す」と言うと、

次は刀を抜き「この刀も通してみよ」と言うと、「道には関所があり、この口は関所であり通すことはかなわぬ」と応えたという。

また、屏風の虎を捕らえよとか、この橋渡るべからずとかの問答を投げかけたなどがあるが、これは後世の作り事で、一休禅師と足利義満とのつながりは深いものがあったようである。