ここにも芭蕉の句碑が建っている。芭蕉の句碑や塚は、北は北海道から南は鹿児島まで、さすが沖縄にだけは無いようで、沖縄を除く46都道府県に芭蕉に関係する何らかの碑が建っているのである。 |
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碑には、「半日は 神を友にや とし忘」とあり、駒札によれば、 |
『松尾芭蕉は、元禄3年12月に凡兆、去来、乙州、史邦ら門人を伴ひ、当社に参詣し別当家に半日を打寛ぎ、「年忘れ歌仙」を奉納した。 |
「俳諧八重桜集」には、当社を称えた数多くの歌仙や奉納発句が登載されてゐる。 |
慶応元年9月/一瓢社 出雲路社/花弟舎徒 建立』とある。 |
出典:【芭蕉句碑の駒札】より |
松尾芭蕉は、寛永21年から元禄7年(1644~1694)を生きた、江戸時代の俳諧師である。 |
芭蕉は伊賀国(三重県)に生まれ、芭蕉の生家なるものが残っているのだが・・・。 |
北村季吟(ぎぎん)の弟子となり、30才の時に江戸に向かい、日本橋に居を構えるが、後に深川に移っている。 |
この頃から「旅も庵」という思いが強くなり、貞享元年(1684)に、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張を巡り、年を越して、木曽・甲斐を経て江戸に戻る旅をしている。 |
この旅立ちの最初に詠まれた、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」に因んで、この旅を『のざらし紀行』という。 |
貞享4年(1687)には、伊勢に向かい伊勢神宮を参拝したのちに、紀伊から大坂・須磨・明石を経て、京へと入る。 |
京から江戸への帰り旅は「更科紀行」として纏められている。 |
元禄2年(1689)に弟子の曾良を伴い「おくの細道」への旅にでる。 |
「行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪」と江戸を発ち、東北・北陸を巡り、数多くのよく知られた俳句を残して、 |
岐阜の大垣で「蛤の ふたみにわかれ行く 秋ぞ」と結びの句を詠んで終わるのである。 |
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そして元禄7年の初夏、芭蕉は江戸を発ち生まれ故郷の伊賀上野に帰っている。 |
秋になり、弟子のいざこざを纏めんと、奈良から暗峠を越えて大坂へと向かうのだが、この頃から体調を崩し、 |
御堂筋の花屋仁左衛門のところに身を寄せたが、容態は変わることなく、ここでその生涯を閉じることとなる。 |
最後に詠んだ句が「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」であり、 |
御堂筋線「本町」の駅を降りて南に50m、南御堂の前の御堂筋東側緑地帯の中に「此付近芭蕉翁終焉地」の石碑が建っている。 |
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