| 本満寺には何故か山中鹿之助の墓が建っている。山中鹿之助と言っても若い人には分からないだろうが、戦国時代に尼子家に仕えた武将である。 |
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| 山中鹿之助は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った人物で、 | |
| 時代は戦国、山陰の出雲国の守護代を務めた、尼子氏に仕えた武将である。 |
| 尼子氏は晴久の時に、山陰・山陽の八ケ国を治め、安芸の毛利元就と拮抗していたが、 |
| 永禄3年(1557)に晴久が急死すると、その力は衰えて毛利方に一方的に攻め込まれ、月山富田城を包囲され、 |
| 山中鹿之助などの奮戦も利あらず、永禄9年(1566)に、開城のやむなしに至るのである。 |
| その後、山中鹿之助など尼子の遺臣は、尼子一族の勝久を擁し、織田信長が庇護を受け、一時的に尼子家を盛り返すのだが、 |
| 最後は信長に見捨てられ、天正6年(1578)、播磨の上月城に籠るも毛利軍に攻められて、 |
| 尼子勝久は自害し、山中鹿之助は捕えられ誅殺され、尼子家は滅亡するのである。 |
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| 山中鹿之助の墓とされるものは、全国各地にあるようだが、本満寺にも墓石が建っている。 | |
| ここに鹿之助の墓所があるのは、宝暦14年(1764)、鹿之助の子孫によって建立されたもので、鹿之助の遺徳が偲ばれる。 |
| 墓石の裏には、 |
| 『尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。 |
| 実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子孫山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、 |
| 先ず本に報じ、以て無窮に示す。宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日当山丗七世日視誌す』とある。 |
| 出典:【山中幸盛の墓碑(原文は漢文)】より |
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