三条会商店街を堀川通に出て、一筋北の姉小路通を東に入ったところに「橘逸勢邸址」の石碑が建つ。

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以前にはこの石碑の横の民家の戸袋に由来を書いた紙が貼られていたが、風雨に晒されて飛んでしまったのか・・・そこには、

『蛟松殿跡(はいまつどのあと)

平安初期の官人で、嵯峨天皇・空海とともに日本の三筆のひとりといわれた、橘逸勢(たちばな はやなり)の邸宅であった。

橘逸勢は、延暦23年(804)最澄、空海らとともに入唐して、書道を柳宗元に学び、とくに隷書が得意であった。

邸は安元3年(1177)1月の大火で焼失した。

毘沙門堂跡

蛟松殿跡の西にあり、毘沙門天を本尊とし、後世、多門寺と称した。

またこの小路を「妹之辻子」と呼んでいる。』と書かれてあった。

この通り(路地)が何故「妹之辻子」と呼ばれるのかは、

その昔、ここが御池通から三条通へと抜けることが出来る(現在は抜けることは出来ない)通りだったことから、

あねさん(姉三)に因んで、妹と付いたのだというのである。

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橘逸勢は平安初期の貴族で、延暦23年(804)に遣唐使として、最澄、空海らと共に唐へと渡っている。

大同元年(806)に帰国し、但馬権守に任じられているが、さして活躍をした形跡はない。

これは橘逸勢が中国語が得意ではなく、唐ではもっぱら琴と書を学んだといい、それが嵯峨天皇・空海とともに三筆と称され、書の第一人者となっている。

また逸勢は、承和の変(842年:廃太子を伴う政変で、藤原氏による最初の有力貴族の排斥で、伴氏と橘氏を失脚させた事件である。)で、

藤原北家の藤原良房の動きに不安を感じ、恒貞皇太子を東国に逃がそうと画策するが発覚し、橘逸勢は伊豆に流される途中に遠江板築にて病没をする。

死後、罪を許されるものの、無実の罪で非業の死をとげた橘逸勢は、怨霊となったといい、その魂を鎮めるために、

早良親王(さわらしんのう)/伊予親王(いよしんのう)/藤原吉子(ふじわらのきっし)/藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)

文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)/吉備聖霊(きびのしょうりょう)/火雷天神(からいてんじん)と共に、

「八所御霊」の一柱として祀られている。