三条通から南に一筋目の六角通にあるのが「武信稲荷神社」である。

三条会商店街から南にすぐ、二条城への10分掛らないところだが、そのざわめきを忘れるかのように、ひっそりと神社は立っている。

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武信稲荷神社は、平安時代の貞観元年(859)2月、

右大臣左近衛大将・藤原良相(ふじわらのよしすけ:勧学院を建てた、藤原冬嗣の五男)公により、

人々の健康長寿を願い、また延命院と観学院の守護神として創祀した神社である。

平安京の大内裏は、今の千本丸太町の辺りであり、現在の千本通りが、平安京の朱雀大路にあたり、神社付近は貴族の邸宅や平安京の諸官庁があった地域でもある。

後に、藤原武信なる人物が、この神社を厚く信仰し神徳を高めたことで、武信稲荷と呼ばれるようになり、創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰されている。

                   参照:【武信稲荷神社のHP】より

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クリックで大きくなります また境内には、平重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移し植えたという、樹齢850年をこえる榎(エノキ)があり、この付近が壬生(水生)という地名からもうかがえるように、かつては地下水位が高く、こうした地質がこの古木を育成したと考えられる。京都市天然記念物に指定され、高さ23m、胸高幹周り4mで、コケのむす幹は九つに分かれ、四方に大きく枝を伸ばす。樹冠は東西22m、南北26mにも及ぶ。

この榎は、坂本龍馬とおりょうとの縁を結んだ木として知られていて、その説明板によれば、

『神社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されていた。

その中に坂本龍馬の妻おりょうの父が勤王家の医師であったため捕らえられていた。

龍馬とおりょうは共に何度か訪れるが、龍馬自身も狙われる身であり面会はかなわない。その為この大木の上から様子を探ったという。

その後命を狙われ追われる龍馬は身を隠すことになる。おりょうは龍馬の身を案じ過していた。

そんなおり二人で何度も訪れた武信稲荷の榎をふと思い出し訪れた。

するとそこには龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってあったという。

自分は今も生きている。そして京都にいるのだ。そういう龍馬からの伝言であった。

龍馬が京都にいることを知ったおりょうは二人の共通の知人を訪ね、その後に二人は再び出会えたという。

御神木の榎は850年の生命力から健康長寿の信仰が厚い。

また榎は「縁の木(えんのき)」とも読まれ、御神木の榎に宿る弁財天を祀る末社の「宮姫社」は縁結び、恋愛の神としても知られる。

龍馬とおりょうもそんな縁結びの力を頂いた二人である。』


      出典:【武信稲荷神社のエノキの駒札】より
      出典:【龍馬の伝言幹に刻み・・・坂本龍馬と妻おりょうの説明板】より