三条会商店街のアーケードに千本三条から入り、東に150mほど行ったところを北に少し入ると「勧学院」があった所である。

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クリックで大きくなります 勧学院は、弘仁12年(821)に、藤原氏の子弟のために、藤原冬嗣によって設けられた、大学別曹である。大学寮の南、平安京左京3坊5町にあったことから、南曹とも呼ばれていた。その跡を示すものは、この石碑のみなのだが、中京区西ノ京勧学院町として、地域にその名を残している。

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勧学院を造った藤原冬嗣は、平安時代初期の公卿で歌人である。藤原一族のなかでも順調に昇進をし、最後には太政官の左大臣にまで昇りつめている。

冬嗣は良く出来た人物だったようで、他の人からも好まれ、藤原氏の長として一族を纏め上げた。

冬嗣は藤原氏が以降に続く摂関政治の基礎をつくったともいわれ、その子・良房は太政大臣となり

摂政(せっしょう:君主が幼少などで、君主に代わって政事を治めること)となり、

他の有力貴族を失脚させると共に、皇室に娘を嫁がせ、天皇の外祖父として権力を握るという手法をとった。

この手法は以降、藤原氏の権力掌握の常套手段となってゆく。

有力貴族であった、伴氏や橘氏・紀氏などを失脚させ、かの菅原道真もまた、頭を押さえられ大宰府に左遷をされている。

平安中期の藤原道長(966~1028)の時代に全盛期を迎えるのだが、道長は摂政には1年しか就かず、子の頼通に譲っている。

この時期に道長は、

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は、自分のためにあるようなものだ、満月のように、何も足りないものはない)

と詠んでいる。

ちなみに、その子の頼通は道長の宇治の別荘を改築し、平等院を建立している。

上り詰めると後は坂道を転がるように、武士の台頭とともに摂関政治は消滅するのである。