二条駅前から南に、千本三条の角、ファミリーマートの前に建つのが「従是西北奨学院址」の石碑。

 クリックで大きくなります

クリックで大きくなります 奨学院は、先に御池通にあった弘文院と同じく、平安時代の大学別曹のひとつで、在原業平が元慶5年(881)に、歓学院(左京三条1坊5町にあった、藤原氏の大学別曹)に倣い、その西のこの辺りに開いたものである。奨学院には皇王や氏族(源氏・平氏・在原氏)の子弟が寄宿し、大学寮に通った。昌泰3年(900)に、大学寮南曹となり、勧学院と並んで「南曹の二窓」と称された。

在原業平は、平安初期の貴族で、今でいうイケメンのプレイボーイだったようである。和歌に秀でていて、六歌仙・三十六歌仙の一人である。

業平は相当の美形だったようで、「業平のようだ」といえば美男子のことをいい、「業平作り」は業平のような身の作りから美男子の容姿に言われる。

業平に所縁の地が京都や奈良にあり、奈良市法蓮町の「不退寺」/業平の誕生地とされる、天理市櫟本町の「在原神社」/

夜な夜な女性のもとに通ったという「高安の地」これには二説あり、奈良生駒郡斑鳩町高安と大阪八尾市高安とある。

晩年を暮らしたという、京都市西京区の「十輪寺」/そして、吉田山の「業平塚」と業平にまつわる地は至る所に残っている。

また業平は「伊勢物語」の主人公だとも言われており、そこで詠まれた歌も業平の作だという。

古今和歌集には、

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

など、よく知られた歌がある。