御池通をさらに西に、もう少しで千本通だという所、駐車場の前に「此付近弘文院址」の石碑が建つ。

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クリックで大きくなります 弘文院は、和気清麻呂の子・広世が父の意思を継いで、和気氏の子弟のために開いた、大学別曹(大学寮の附属機関だが、今でいう私学であり、有力な貴族が開設する)で、大学寮の南のこの辺りにあった、和気氏の私邸を開き「弘文院」称したのである。大学別曹の中で最も古いものだというが、和気氏の衰退とともに廃滅をする。

和気氏は奈良時代に、和気広虫姫とその弟、清麻呂が、神護景雲3年(769)に

僧弓削道鏡が皇位を奪おうとした道鏡事件の際に、流刑されるも道鏡の野望を挫いた功により朝廷に重用される。

和気清麻呂は、奈良時代末期(733年)から平安初期(799年)を生きた人で、道鏡事件で女帝称徳天皇の逆鱗に触れ宇佐に配流されるも、道鏡失脚後に京に戻される。

その後一時地方へ転出させられるが、桓武天皇の時に重用され、平安遷都の建設に力を尽くした。

また神崎川と淀川を直結させ平安京への物流を確保した。

さらに延暦7年(788)に上町台地を開削し、大和川を直接大阪湾に注ごうとしたが失敗をしている。

大阪天王寺公園の中にある茶臼山にある河底池はその名残といわれ「和気橋」という赤い橋が架かっている。

広世はその子で、学者として朝廷に仕えている。

                参照:【Wikipedia 護王神社・和気清麻呂】より