赤尾屋さんから西に、刀剣・古美術の開陽堂さんの前に立つのが「若州小浜藩邸跡」の石碑である。この辺りに小浜藩の屋敷があった。

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駒札によれば、

『ここ池ノ内町一帯は、江戸時代京都所司代を三代21年の長きにわたって務めた、譜代名門の若州小浜藩酒井家12万2千石の京都藩邸跡である。

その敷地は東西220米、神泉苑町通から智恵光院通まで、南北260米、御池通から三条通まで、

その他家臣の屋敷が西側につづき、これらを含めると約2萬坪の広大な藩邸であった。(二条城は約8萬坪)

又、この屋敷はのちに徳川15代将軍となった慶喜公が、文久3年(1863)12月から使用し、

慶応3年(1867)9月21日二条城に移るまでの3年10ケ月、京都における幕府の活動拠点になり、

この間ここで4賢候会議を始め、京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、大政奉還の腹案を持って二条城に入り、慶応3年10月14日の布告となった。

この屋敷が幕末わが国にとって重要な役割を演じ、その決断が下された場所である。

当時の面影を残すものは無く、唯一前に立っている燈籠があり、側面に萬延2年辛酉年2月(1861)、正面に白須甲斐守源政偆とある。』

                出典:【若州小浜藩邸跡 通称若州屋敷の駒札】より

若狭国(現在の福井県)は、関ヶ原の戦功により、京極高次が、小浜8万5千石を与えられ入国をする。

その子、忠高が寛永11年(1634)に、23万5千石で島根の松江藩に移封となる。

その後に、徳川普代の酒井忠勝が入り、徳川最後まで坂井家が治めることとなる。

酒井家の最後の当主、14代酒井忠義は、幕末の京都所司代として、京で安政の大獄を推めた人物であり、戊辰千總では幕府側に与して戦ったが敗れ、後に小浜藩知事となっている。

なお、杉田玄白は小浜藩の藩医で、有名な「解体新書」著している。