二条城の南、押小路通に立つ「神泉苑東・西端線」の石碑と、「東町奉行所跡」を見て、北門から神泉苑に入る。

神泉苑は以前にも訪ねているので、今回はその中にある駒札や説明文を中心に掲げてみる。

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神泉苑は、平安時代に天皇が遊宴や花見、遊猟を楽しんだ禁宛である。神泉苑の駒札によれば、

『延暦13年(794)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。

その境域は、南北四町東西二町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣(けんりんかく)や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や貴族が舟遊、観花、賦詩、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。

天長元年(824)春の日旱(ひでり)に、この池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、

以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。また、貞観5年(863)には、初めて当苑で御霊会が執行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。

現在は、東寺真言宗に属し、毎年5月1日から四日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)が執り行われる。』

                    出典:【神泉苑の駒札】より

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観世音菩薩を安置する本堂の前にある説明文には、

『神泉苑とは・・・

神泉苑は今を去る千二百余年の昔、桓武天皇が平安京を造営の折、大内裏に近接して創建された禁宛で国指定の史蹟です。

この名宛を舞台に歴代の天皇が行幸され竜頭鷁首の船をうかべ詩賦、観花、相撲、遊宴など優雅な王朝絵巻が繰り広げられました。

天長年間には弘法大師空海が当宛にて善女龍をご勧進して祈雨の修法をなされ、名僧が競って修法されました。

小野小町も「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」

と和歌を詠じて効験があったとされ、また、静御前は舞を奉納して雨を祈ったといわれています。

貞観年間の神泉苑において始められた御霊会が後に「祇園祭」として盛行されるようになりました。

江戸時代には徳川家康の二条城築城の際、神泉苑の境内が削られたが、時の所司代板倉勝重や地元の人々の努力により現在の境内が保たれました。

このように神泉苑は京都の最古の史蹟として善男善女から尊崇を受けています。

                        出典:【神泉苑の説明碑文】より

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またここは謡曲「鷺」と関わりがあり、その駒札によれば、

『京都の地形は北高西南低で、昔この辺は湿地帯となっていたが、それをうまく利用して禁苑としたのが神泉苑である。

かっては広大な地を占め、天皇御遊の庭園として、四季折々に華麗は行事が催されていた。また苑池には水鳥も多く野鳥観察に好適の地ともされていた。

「源平盛衰記」には醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんで、かしこまった話がのせられており、謡曲「鷺」は、これをもとにつくられている。

俗に”五位鷺”というのは、このとき天皇から五位の位を賜ったことから、このように呼ばれるようになったといわれている。』

                 出典:【神泉苑と謡曲「鷺」由来の駒札】より