正親小学校の前に立つ二つ目の石碑は、ここが平安宮の大蔵省と大宿直(とのい)があった場所を示す「平安宮大蔵省跡」の石碑。

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その石碑の横に建つのが「源氏物語ゆかりの地」の説明板で、「平安宮大蔵省・大宿直跡」となっているのだが、

祖・庸・調を納める蔵と、内裏を警護する役人の詰め所があった所で、これと源氏物語とがどう繋がっているのかということには触れられていないのだが・・・

平安京は、東は東京極大路(現在の寺町通)から、西は西京極大路(現在の葛野大路)までの4.5Km、

北は一条大路(現在の一条通)から南は九条大路(現在の九条通)までの5.2Kmのほぼ正方形の都である。

その中に、国の行政機関や行事を行う殿舎、また天皇の住まいする内裏などがあった、平安宮(大内裏)が平安京の北中央部に設けられた。

北は一条大路(現在の一条通)から南は二条大路(現在の二条通)までの1.4Km、東は大宮大路(現在の大宮通)から、西は西大宮大路(現在の御前通)までの1.2Kmの広さに、

周囲を隍(濠・ほり)と壖地(ぜんち:犬走り)及び高い築地塀に囲まれていた。大蔵省や大宿直は、平安宮の北に位置していた。

さらにその中に、天皇や后たちが住まいする内裏があり、東西に171m、南北に216mの大きさであった。

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「平安宮大蔵省・大宿直跡」(上京区中立売通裏門西入多門町(正親小学校))の説明板には、

『大蔵省は令制八省の一つで、多くの倉庫があった大蔵を合わせて平安宮の北八町を占めていた。

出納・収納・度量衡などを職務とし、諸国から貢進される調庸・銭ないし金銀以下の貢献物を、正倉などの倉庫に納め、官人給与の禄やさまざまな財源に充てられた。

大宿直は平安宮内に置かれた内裏警護人の詰め所で一町(120m四方)の規模があった。名和3年(1014)に焼失し、内蔵寮・掃部(かもん)寮なども類焼している。

なお、正親小学校の構内西は大蔵省跡、東は大宿直跡に当たり、さらにこの付近は安土桃山時代に築かれた聚楽第の本丸西濠跡に当たる場所である。』

                出典:【平安宮大蔵省跡・大宿直跡の説明板】より