勝福寺から中立売通を西に、正親(せいしん)小学校の前に石碑が三つ並んで立っている。始めに目に入るのが「此付近聚楽第址」の石碑。

 クリックで大きくなります
この石碑は、聚楽第本丸西濠があった所で、先ほど大宮中立売のハローワークの前に建つ「聚楽第址」の石碑が、

聚楽第の東濠があった辺りであり、この二つの石碑は距離にして255m余りで、聚楽第の東西はこの長さだったようである。

 クリックで大きくなります
駒札によると、

『かつてこの一帯には平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」と呼ばれていた。

その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に、豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。

秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正14年(1586)に、聚楽第の築城を開始し、翌15年に正室の北政所(おね)母の大政所とともに大坂城から移り住み、政務を執るようになった。

その後、秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ、豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。

この城は幅20mから43m、深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、桧皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。

城は内郭と外郭の大きく二つに分かれ、内郭はさらに本丸、南二之丸、北之丸、西之丸に分かれる。

これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠、南二之丸の南側と西側の濠、さらに北之丸の北濠と石垣などが明らかにされた。

特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されている。

天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命により文禄4年(1595)に破却され、わずか9年の短い歴史を閉じている。』

                出典:【この付近 聚楽第本丸西濠跡の駒札】より


その駒札の前に京ことばで書かれた、聚楽第の内容が面白かったので、ここに掲載しておく。

『聚楽第は「じゅらくてい」と読みます。「じゅらくだい」というてもかましまへん。

聚楽第はいまから四百年余り前に太閤秀吉(たいこうひでよし)はんがこの辺りに建てはった建築群で、いまの二条城みたいに濠と石垣で囲まれてましたさかいに、外見はお城みたいどした。

中には行幸御殿、天主御殿、その他の屋敷、茶屋などが建てられ、池と庭園がおました。それはようでけてたらしいどす。

ここ(裏門通り)は聚楽第の西側の濠があった場所どす。ここから二百五十メートル東、いまハローワークやユニクロがあるところ(大宮通り)に東側の濠がありました。

そのハローワークを建てるときに地面を掘ったら聚楽第屋敷の瓦が出てきました。

瓦には金箔が貼られていていまは国の重要文化財になってます。それを記念してハローワークの向かいに「聚楽第址」の石碑が建ってます。

その石碑(東濠跡)と、いま見といやすこちらの石碑(西濠跡)との間に聚楽第あったということになります。

聚楽第は竣工して八年後に或る理由で完全に取り壊されてしまいました。当時の記録も余りあらしまへんので、ほんまはどうやったんかよう分かりまへん。

この石碑のおかげでこの辺りに聚楽第があったんやということが分かるだけどす。』

                出典:【聚楽第址の石碑の側にあった説明書】より