武者小路通を更に西に、新町通の辻を北に50mのところにあるのが「霊光殿天満宮」である。

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この神社の凄いところは、学問の神である菅原道真と、武勇の神である徳川家康が一緒に祀られていることであり、

目的に向い一生懸命に努力した人が祈願をすれば、目的成就するといわれているのだが、

神頼みではなく、まず力を尽くして努力をしさえすれば、神もおのずから助けてくれるということであろう。

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寛仁2年(1018)に、菅原道真の6代後の菅原義郷が、河内の若江郡に社殿を建て、道真公を祀ったのが始まりとされ、

鎌倉時代の蒙古襲来のおりに、後宇多天皇がこの社に詣で、蒙古退治の祈願を行うと、元の船がことごとく波にのまれ沈んでしまったと言い、「天下無敵必勝利運」の額を賜ったという。

(実際は、蒙古襲来は秋の台風」シーズンの頃であり、大型の台風が日本を直撃し、その為に蒙古の船がひとたまりもなく、沈んだのであるが・・・これ以来、神風を呼び太平洋戦争まで引きずってしまうのである)

後に、徳川家康がこの社を深く帰依し、元亀元年(1570)に、天下泰平の祈願をしている。徳川3代将軍、家光が家康の像をこの社に移し、祭神としている。

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駒札が少し難解なのだが、

『後一條院天皇の御宇、天神六世の神孫贈従一位菅原義郷天皇の勅を奉し、天神の御領地、河内若江郡に神殿御建造あらせ給ひて御崇敬あり。

爾来、神威益々盛なるに至り、御神誥により今の京に遷し奉り。

御宇多天皇の御宇、蒙古の賊襲来す。

天皇即ち当社に於、夷賊退治の祭事あり、神威灼然として忽賊船悉く亡滅す、叡感あらせ給、天下無敵必勝利運の御宸翰の御額を御進納あり、

今尚宝存す然かのみならず、御寄附の神領若干あり歴朝の御崇敬は至れり、應仁の大乱に御殿並に御神領荒廃す。

徳川家康公当社に参拝あり、天下太平の祈願あり、又寄附のものあり。

其後屡々火災ありて、朝廷より内侍所御進納あり。今尚御仮殿たるは実に恐粛に堪へず。

有志の甘心せざらん哉。神徳之廣大なるは他社の比に非ず。其の詳別由来記に有。』

 出典:【霊光殿天満宮と申し奉るの駒札(文中、カタカナは平仮名に)】より