千本今出川の交差点まで戻り、今度は西に少し歩くと「上善寺」という天台宗のお寺がある。

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上善寺は鞍馬口にある、通称「鞍馬口地蔵」と呼ばれる地蔵尊を安置する、六地蔵巡りの上善寺が有名であるのだが、

上善寺は貞観5年(863)に慈覚大師円仁により、天台密教の道場としてこの地に建てられたのが始まりという。

その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信によって再興をされ、寺名を上善寺とする。

しかし文禄3年(1594)秀吉の京都改造に伴い、鞍馬口に移転をし、その時に浄土宗に改められる。

ということで、創建当初の上善寺は鞍馬口に移っているのに、何故この場所に上善寺があるのか・・・

そう種明かしは簡単で、移転した跡地に又、上善寺を建立したのである。そんな訳で、上善寺という名の寺が、ここと鞍馬口とに二つ出来たのである。

どちらが元祖かと言われると、甚だ答えに困るのであるが・・・。

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もう一つ、ここには忠臣蔵に所縁のある人物の墓がある。

それは赤穂浪士四十七士ではなく、大石内蔵助の妾であった、お軽である。

お軽は山科での大石の廓通いを止めさせようと、京の浪士達が18才のお軽を側に置かせたのである。

大石が江戸に下向する際に、京二条の実家に戻らしている。29才の若さで亡くなり、この寺に葬られたと言う。

これがお軽の実際の姿なのだが、お軽といえば、早野勘平の名が浮ぶ。

仮名手本忠臣蔵では、顔世御前(浅野長矩の正室)の腰元として、早野勘平とともに、悲恋の女性として画かれている。

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山門を入ってすぐにあるのが大師堂。

ここには、元三大師(がんざんたいし)、三天合体大黒天(さんてんがったいだいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)が安置されている。

元三大師は、第18代天台座主で比叡山延暦寺の中興の祖として知られている。

三天合体大黒天は、弁財天・毘沙門天・大黒天の三天が一体となったもので、その姿は見たことはないのだが、

頭が弁財天で、身体が毘沙門天、大きな袋を持っているので大黒天という、変わった姿の大黒さんだという。