紫式部ゆかりの廬山寺の北隣にあるのが「清浄華院(しょうじょうけいん)」、その名は「浄土に咲く蓮の華のように、清らかな修行ができる所」という願いが込められているという。

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この寺には、公家の姉小路公知(きんとも:江戸時代末期の尊王攘夷派の公家で、三条実美とともに、攘夷派の急先鋒であったが、

文久3年(1863)に、御所朔平門外の猿ケ辻で刺客に襲われ25才の短い生涯を閉じている。

刺客は3人だったといい、その主犯格が、薩摩の田中新兵衛だといわれており、薩摩藩が裏で糸を引いていたと言われる。

公知も明治まで生きていれば、明治政府の要職を担っていたであろうに、行動が過激だったゆえに、暗殺されてしまったのである。)や、

錦の御旗をデザインした玉松操(江戸末期から明治にかけての国学者。岩倉具視の腹心として、岩倉の活動を助けた。)や、

山科言継(ときつぐ:戦国時代の公家で、多くの戦国大名との交友が深く、織田信長との交渉役としても活躍した。)

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寺の由来を駒札にみようと思うのだが、門前に新旧の駒札が掲げられてあった。駒札も古くなると架け替えられていて、新旧が微妙にその内容が違っているのが面白い。二つを比較してみると、

『浄土宗八総大本山の一つ。浄華院ともいう。貞観2(860)年清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。

後に後白河・高倉・後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。

室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。

その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院の他、皇子・皇女の墓が多数営まれている。

幕末には御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の一つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしている。

山科言雄、姉小路公知などの著名人の墓も多い。寺宝として普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)や「泣不動縁起」絵巻(重文)がある。

大殿には法然上人像を安置、また境内の不動堂には「泣不動縁起」に由来する泣不動尊像を安置する。』

                      出典:【清浄華院の駒札(新)】より

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『貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所内に御内仏殿の造営に着手し、同5年(864)落成、禁裏内道場として発足したのが、はじまりである。

清浄な華の台(うてな)を望むという意味から清浄華院の名を賜った。

はじめ天台宗であったが、のちに、後白河天皇が法然上人源空を住持としたところから浄土宗に転宗し、その後、いくたびかの移転を繰り返した後に天正18年間(1590)、現在の地に移る。

本堂には法然上人像や、清和・村上両天皇の尊像と歴代天皇の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓をはじめ、立入宗継や山科言継(ときつぐ)、姉小路公知(きんとも)など歴史上著名な人物の墓も多い。

なお、不動堂の不動明王は身代り不動といわれ、その霊験は重要文化財「泣不動縁起」に語られている。』

               出典:【浄土宗大本山清浄華院の駒札(旧)】より