廬山寺はまた、紫式部邸跡だと推定され、ここで「源氏物語」や「紫式部日記」が書かれたという。

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廬山寺の本堂玄関前にあるのが、源氏物語ゆかりの地の説明板「廬山寺」。

廬山寺は紫式部実家推定地とされる所で、ここで「源氏物語」が執筆されたとする説がある。
(上京区寺町通広小路上る北之辺町(廬山寺境内))

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その説明板には、

『現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良原(元三大師)が船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。

寛元3年(1245)、法然上人に帰依した住心覚瑜(じゅうしんかくゆ)上人が出雲路に廬山寺を開き、

この二カ寺を兼務した明導照源上人(1339~1368)によって、廬山寺を與願金剛院に統合し、寺名を「廬山天台講寺」とした。

四辻善成の「河海抄(かかいしょう)」に、紫式部邸の位置が「正親町(おおぎまち)以南、京極西頬(つら)、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。

また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、

ここで「源氏物語」や「紫式部日記」が執筆されたという説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。』

                    出典:【源氏物語ゆかりの地 廬山寺】より

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また、その横には紫式部と大貮三位(だいにのさんみ)母子の歌碑が立つ。

大貮三位は、「有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」と詠み、

紫式部は、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」と詠んでいる。

説明板には、

『大貮三位「作者は名を賢子(かたこ)と言い、父は右衛門権佐・藤原宣孝、母は紫式部。長保2年(1000年)に出生、永保2年(1082年)に薨じた。

親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となり、従三位典侍(ないしのすけ)に昇進した。三位であると共に大宰大貮・高階成章と結婚したため、宮廷では大貮三位と呼ばれた。

歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貮三位集」を遺した。極めて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄與した。」

紫式部「紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしい。

生年は天延元年(973年)頃、没年は長元4年(1031年)頃と推定される。夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。

中古三十六歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。」』

                   出典:【紫式部・大貮三位歌碑の説明板】より