境内のなかには色々な石碑があるのだが、その一つである「神勅碑」。

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その由来は、

『此の神勅の碑は、当神社第一座祭神忠成公、諱(いみな)は実万(さねむつ)公、

当初之を紙本に敬写して、皇室の御隆盛を祈願し居給ひしを、後第二座祭神実美(さねとみ)公、

其の書久しきを経て消滅に帰せんことを恐れ、之を石に刻し置き給ひしものなり。

然るに実美公の令嗣三条公輝公爵は、京都府知事池田宏氏の請を容れ、昨秋該碑石を奉納せられたるを以て、当神社は特志家某氏に謀りて、之を境内に建設することとなしす。

凡そ、当神社の神前に参拝せらるるものは、神勅中の此の句を拝読し、両祭神誠忠の御趣旨を体して、

皇国開闢以来、万古不易の大精神を喚起し、益之を発揚して皇運の長へに隆昌ならんことを祈願し給ふべきなり 大正十五年丙寅九月

(碑文中のカタカナをひらがなにし、句読点をつけた)

                    出典:【神勅碑建設由来の碑文】より

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その先にもう一つ梨木神社の由来書きがあったので、ここで紹介しておく。

『ご祭神「贈右大臣正一位 三条実万公」「内大臣正一位大勲位公爵 三条実美公」

実万公は、当時「今天神」と人々から尊称され、才識兼備のお方であった。

光格・仁孝・孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、

安政の大獄の折、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、五十八歳で薨去された。

明治2年その功績を愛で、天皇より“忠成公”の諡(おくりな)を賜わり、同18年10月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創祀せられるに至った。

実美公は、父実万公の遺志を継ぎ、朝威回復・攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍。

しかし文久3年8月18日の政変で頓坐し、同志の公卿と共に長州西国に赴かれ、艱難辛苦を経て維新の大業を達成せられた。

そして明治新政府では、右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任された明治の元勲である。

公は明治2年東京へ遷都の際、御所廃止の論が起こるも、これに極力反対された。今日なお栄えて在る京都の大恩人である。

のち大正4年、大正天皇即位ご大典の折合祀せられた。

                   出典:【萩の宮 梨木神社由緒の説明板】より