鴨沂高校から寺町通を北に少し行くと、東に小さな通りが鴨川へと続いている。これが荒神口通である。 |
その北側にある鴨沂高のグランドの塀に埋め込まれるようにして立つのが「従是東北法成寺址」の石碑。 |
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![]() | 法成寺は、摂関政治の全盛を極めた藤原道長が創建したもので、宇治平等院の範となった寺院である。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と、この世の栄華を極めた道長も、死に臨んで浄土信仰の阿弥陀如来にすがり、西方浄土に導かれることを願い、この寺で往生したという。 |
法成寺は、平安時代の康平元年(1718)の大火で焼失するが、子の頼通がすぐに再建するのだが、度々の災禍に遭い鎌倉時代末期に廃絶し、今その名残を留めるものはこの石碑のみである。 |
またこの石碑には、「源氏物語ゆかりの地」として説明板が設置されており、法成寺が紫式部の後ろ盾であった藤原道長の造営になることから、源氏物語に関する地とされている。 |
(上京区荒神口通寺町東入ル荒神町) |
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説明板によると、 |
『寛仁3年(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、 |
翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現した。 |
平安京外の東一帯に位置することから「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。 |
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれ(『徒然草』)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。 |
ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。発掘調査では法成寺址の遺構は見つかっていないが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土している。』 |
出典:【法成寺址の説明板】より |
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