寺町通に面し御所の隣にある高校として、また、その前進は日本でも最古の高等女学校として創立された学校である。 |
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鴨沂と漢字では書くのだが、普通に読むことが出来ない。 |
学校を知っているので「おうき」と読めるのであって、鴨とこんな字ではとても「おうき」とは読めない。 |
明治5年(1872)に「新英学級及び女紅場」として開校をされ、丸太町橋西詰に「女紅場跡」の石碑が建つが、 |
女紅場とは、女子のために裁縫や機織・読み書きなどを教える学校であり、明治10年頃になるとその殆んどが女学校として改制をされている。 |
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そして、この場所にあったのが、新英学校女紅場で、後に京都第一高等女学校となり、現在は京都府立鴨沂高等学校となるのである。 |
明治33年(1900)に現在の地(京都御苑の寺町通を挟み向い側、寺町通荒神口下ル松陰町)に移り、茶室と正門が移築された。正門のみを見ていると、とても学校だとは思えない。 |
この時に、京都第一高等女学校と改称され、戦後の学制改革により、鴨沂高等学校と改称され男女共学となっている。 |
つい最近までは制服もなく私服での通学であったが、2013年に制服が導入され、また型にはまった人間を作りだそうとしているようで、 |
それまでの自由闊達な精神と、京都大学への進学率が全国一であった頃を偲ぶよすがも窺いしれないようである。 |
この学校の卒業生に、山本富士子、団令子、加茂さくらなどの女優や田宮二郎などスクリーンで活躍した人達がいて、 |
森光子や沢田研二もこの学校に席を置いていたことを思うと制服などという論議はどうなのであろうか。 |
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