金色院の惣門をくぐると、そこには金銀紗に彩られた堂塔伽藍が立ち並び、まさに平泉中尊寺の金色堂がこれを真似て造られたというのも頷ける。 |
・・・と書くところだが、今は惣門をくぐっても何もない里山の静かな佇まいがあるだけである。 |
その跡をしるした石碑が一つ「此の付近金色院跡」と刻まれて、その跡であったことを僅かに留めるだけである。 |
そばにある発掘調査概要の説明板には、 |
『白川金色院は、藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇后であった四条宮寛子が平安時代後期の1102年に創建した寺院です。 |
本堂は金色に輝く七間の文殊堂であったとされます。室町時代の1460年に焼亡し、ただちに再興されました。現在は、室町時代の惣門と鎮守の白山神社が伝わります。 |
寺跡は集落東側の棚田から里山一帯にかけて広がり、平成5年から14年にかけて発掘調査が行われ、平安時代の堂跡や縁塚、室町時代の坊跡などが見つかっています。』 |
出典:【白川金色院跡の説明文】より |
また地蔵院にあった駒札には、 |
『金色院は後冷泉天皇の皇后四条宮寛子(宇治平等院を建てた関白藤原頼通の娘)が康和4年(1102)に創建した寺とつたえられています。 |
この白川の里にはその名のとおり金色まばゆい伽藍が並び建ち、天冶元年(1124)に落成した奥州平泉の中尊寺金色堂のモデルにもなったといわれますが、 |
長禄4年(1460)の火災に焼失し金色院の優美なたたじまいは失われてしまいました。 |
現在ではその鎮守社であった白山神社に寄棟造茅葺拝殿(鎌倉)があり、 |
ここ地蔵院には奈良時代の銅造阿閦(あしゅく)如来立像、釈迦如来坐像などをはじめ平安時代の銅造・木造の仏像・板彫両界曼荼羅、 |
あるいは建武2年(1335)鋳造の梵鐘、平安-鎌倉期の大般若経など金色院の遺宝とされる多くの文化財が収められています。』 |
出典:【白川金色院についての駒札】より |
と金剛院についての記述があった。 |
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