宇治文化センターから随分と遠回りをして、白川の里へと着いた。白川の名は、平安貴族が宇治に別荘を構えた際に、洛東の白川に因んで、ここを宇治の白川と名付けたという。 |
白川の里には、今は無い「金色院」があった所だが、その金色院の遺仏・遺品を数多く伝え、白川の惣堂として室町末期に創建された「地蔵院」がある。 |
宇治市の史跡紹介によれば、 |
『地蔵院は、弘冶年間(1555~58)に創建され、藤原頼通の娘・四条宮寛子(かんし:1036~1127)が康和4年(1102)に建立し、のちに廃絶したと伝えられる白川金色院の遺宝を多数所蔵しています。 |
白鳳時代の阿閦(あしゅく)如来立像と釈迦如来坐像などをはじめ平安時代の銅造・木造の仏像のほか、板彫両界曼荼羅、 |
建武2年(1335)の年号と金色院の名が刻まれた梵鐘、また大般若経563巻、紺紙金泥法華経などがあります。』 |
出典:【宇治市の史跡紹介「地蔵院」】より |
地蔵院にはまた、大般若経563巻が伝えられていて、その説明文によれば、 |
『この大般若経は、江戸時代以来金色院の鎮守白山大権現に奉納されたもので、五百九十余巻が伝えられている。構成内容は、平安末期写経352巻、鎌倉時代版本149巻、室町から江戸時代の補写本93巻からなっている。 |
平安の書写経には久安6年(1150)、仁安3年(1168)等の年号がみられ、これらの奥書には、大宅末恒女、藤原忠兼女大江氏らが願主となって発願した旨が記されている。 |
鎌倉時代の版本は春日版で、そのうち60数巻の表紙の見返しに騎獅文殊像の版画がある。 |
また、第163巻などには、西大寺の僧叡尊が聖朝安穏と仏法久住を祈って弘安2年(1279)3月25日に平岡社(大阪府枚岡市の枚岡神社)に奉納した旨を記し、「願主西大寺沙門叡尊」と奥書がなされ、「平岡宮」の主額印が巻首、巻尾に捺されている。 |
宇治橋を再興し、浮島十三重塔を建てるなど氏にゆかりの深い叡尊の伝記資料として注目される。 |
巻第600の巻末に観応元年(1350)12月5日宇治田原町の観音寺に施入した旨が記され、その後白川にもたらされたものと考えられる。 |
平安時代の写経を多く含み、叡尊の自筆奥書がみられること、その伝来の特異性などから貴重な文化財である。 |
時代 平安~江戸時代/形式 巻子改装折本/法量 縦24センチ 横9.4センチ』 |
出典:【大般若経の説明】より |
地蔵院は室町末期の弘冶年間に長柱法印によって創建されたという。地蔵院の説明文によれば、 |
『当山は延命山と号する浄土宗の寺である。昔をしのぶには、あまりささやかであるが、金色院の遺仏を数多く所蔵しており、 |
木造阿弥陀如来立像(重文藤原)、木造観世音菩薩坐像(重文)さらに古様の銅造阿弥陀如来及び脇侍像(重文白鳳)、阿閦(あしゅく)如来立像(重文白鳳)、 |
釈迦如来坐像(重文白鳳)や大威徳明王像(重文藤原)、板彫り両界曼荼羅(重文)などと、昔の充実した寺観を思うべきである。 |
他に白山神社蔵の十一面観音立像(重文藤原)と、昭和45年10月市文化財に指定された「金色院建武2年亥2月20日」と刻銘がある鎌倉時代の鐘、 |
宇治橋を再興した西大寺の叡尊が元弘2年2月枚岡宮で奉納祈念したお経で、叡尊の奥書がある第般若経五六三巻大冶3年の銘があり、平安末期の豪族が寄進したと思われる紺紙金泥法華経がある。』 |
出典:【地蔵院の説明板】より |
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