宇治市役所からさらに南に歩いてゆくと、左は太陽が丘に、右は城陽に続く三叉路となる。その正面にあるのが「下居(おりい)神社」である。 |
下居神社は、三代実録の貞観8年(866)に降居神(おりいのかみ)の記述がみえるが、それはこの神社言われ宇治でも古いものである。 |
宇治市の史跡紹介によれば、 |
『当社の創祀時期は明らかではありませんが、古来この地は斉明(皇極)天皇が行幸の途中に行宮(あんぐう)を営んだ跡地と言われています。 |
祭神として、伊耶那美命、速玉男命、黄泉事解男命が祀られているほか、男神一体、女神二体の木造神像三体が安置されています。 |
また、「万葉集」巻(一)の額田王のうたに詠まれている「宇治のみやこ」の場所だと言われており、境内にはその歌碑が建立されています。 |
なお、緑ゆたかで幽玄に満ちた境内は昭和59年に、京都府文化財環境保全地区に私邸されています。』 |
出典:【宇治市の史跡紹介「下居神社」】より |
下居神社は、旧宇治郷(宇治町)の下居(しもい)地域の住民によって管理されてきた。 |
江戸時代に建てられた社殿は、京都府登録文化財であり、本社に伝わった神像と狛犬の彫刻は貴重な美術品あり、現在は宇治市歴史資料館に寄託されている。 |
下居神社の縁起によれば、 |
『創造と水と襖の神を祀る。太古の部族神として奉祀されたのが始まりで、折居川畔に開けた集落の古さを示している。 |
万葉集巻一額田王の歌に「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮庵し思ほゆ」の仮庵はこの下居の故地だという。 |
仮庵は屋根を草などで覆った仮宿の小屋、みやこは宮のあるところの意である。 |
大化改新(646年)前後の作で額田王はのち天智、天武二代の寵を受け数奇な運命をたどった。古代日本の激動の時期である。 |
三代実録、貞観8年(886年)閏3月7日の記事に、山城国正六位上降居神を従五位下に叙したという降居神は下居神社の神である。 |
以後、時代の変遷とともにさまざまの信仰に静かに支えられてきた。権現信仰はその一つであって熊野権現を直接勧請したのではない。 |
なお神域は京都府による下居神社文化財環境保全地区である。』 |
出典:【下居神社縁起】より |
また額田王が『秋の野の み草刈り葺き・・・』と詠んだ「宇治のみやこ」は、この下居神社であったといい、境内にはその石碑が建つ。 |
駒札によれば、 |
『「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮庵し思ほゆ」 |
この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と伝えられ、「秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊った、宇治のみやこの仮小屋のことがなつかしく思われる」という意味である。』 |
出典:【額田王歌碑の駒札】より |
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