八幡月夜田の待つ花堂。紅葉寺から月夜田まで来ると、松花堂庭園や美術館が広がる。

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松花堂とは江戸時代の始めに、八幡の石清水八幡宮の僧であった松花堂昭乗が、その晩年に住んだ草庵の名である。

石清水八幡宮のある男山に松花堂の草庵があったのだが、明治の廃仏稀釈で荒廃したものを、

西村大成氏の本家があった月夜田の此の地に移され、今は松花堂庭園として一般に開放されている。

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松花堂昭乗は、天正10年(1582)に堺に生まれたと言われるが、

その出自についてはよく分からず、一説では捨て子であって、豊臣秀次の子であったとも言われているのだが、よく分からない。

17才で石清水八幡宮で剃髪して僧侶となり、昭乗と名乗ることとなる。昭乗の身分は僧侶なのだが、諸芸に通じ、特に書では、近衛信尹、本阿弥光悦と共に、寛永の三筆としてよく知られている。

徳川秀忠、家光とも親密であり、尾張中納言徳川義直とも親しくし、関白の近衛信尋とも深い関係にあったという。

晩年は、石清水八幡宮の瀧本防の住職となり、幾多の変遷の後に、男山中腹の泉防のそばに草庵を造り、この庵を松花堂と呼び、亡くなるまで、この庵に住んでいる。

この庵を松花堂と呼び、亡くなるまで、ここに住んでいる。ここには、詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、芸術話に花が咲いたと言われている。

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松花堂と聞いてすぐに浮ぶのが、松花堂弁当である。

松花堂弁当は昭乗が考案したものではなく、昭乗がいつも持ち歩いていた、田の字に仕切った箱に、

刺身、焼き物、煮物、ご飯などを、見栄えよく盛り付けたもので、

昭和8年(1933)に「吉兆」の創始者である、湯木貞一氏によって考案されたものだと言う。

昭乗のつかった田の字の箱は、仕切りのある箱であったのに、松花堂弁当の器は、食事を美味しく食べられるように、見た目の美しさをも考えられている。

その吉兆が、この松花堂庭園に店を構えている。