紅葉寺宝青庵は、吉井勇が昭和20年10月から、23年8月の63才までを過ごした所である。

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宝青庵のなかには「ここに住みし かたみにせよと 地蔵佛 われに呉れたり 洛南の友」という歌碑が建つ。洛南の友とは、宝青庵の住職であった西村大成氏のことで、勇は大成氏を頼ってここに移り住むのである。

八幡の地には3年弱の住まいであったが、その間に谷崎潤一郎や志賀直哉、梅原龍三郎などと親交を深めている。

吉井勇は、明治19年(1886)に東京芝で生まれている。家系は明治維新で勲功をあげ伯爵の位を授かった新興華族である。

若くして祇園に遊び、明治43年(1910)に、「かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる」の歌を詠み(歌集「酒ほがひ」に収蔵)、

大正4年(1915)には「命短し恋せよ乙女・・・」と歌う、ゴンドラの唄を、松井須磨子に歌わせている。

余談になるが、「かにかくに・・・」が詠まれた明治43年、京の町では美人総選挙なるものが行われている。昔より世の殿方はこの種の催しが好きなようである。

この頃の選挙対象者は一般人ではなく、祇園や先斗町・上七軒・五番街・宮川町などの新地のおねえさん方を対象に選挙が行われた。

勇は「明眸も 瓦にひとし 抱かねば かの三榮の あたひ無きこそ」という歌も詠んでいて、このなかの三榮こそ美人総選挙で2位になった祇園の芸祇、鈴木三榮だと言われている。


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また最初に結婚した、伯爵、柳原義光の次女である徳子が、昭和8年(1933)に発覚した、不良華族事件の首謀者であったことから、離婚をし高知県香美郡に隠棲をする。

現在、高知県香美市香北町猪野々には、吉井勇記念館が建てられている。その後浅草に近い料亭「都」の美人芸妓の孝子と結婚し、京都に移り住んでいる。昭和13年のことである。

勇はこれを、天はまだ自分を見捨てはしなかったと言い、昭和35年に亡くなるまで京都に住んでいる。その内の終戦直後の3年弱をこの八幡の地で過ごしているのである。

吉井勇が亡くなった時には、祇園で馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたという。


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吉井勇が宝青庵に住んでいた頃には、ここに風呂がなくこの先の月夜田にあった西村大成氏の本家に貰い風呂をしていたといい、風呂が沸いたことを拍子木を打って知らせたという、今では考えられないことである。

「八幡みち ゆくはおもしろ わがまえほ 鼬道切る やがて雨来る」などと八幡の生活を歌集「残夢」に残している。

松花堂庭園のなかにある歌碑には、「昭乗といへる隠者の住みし庵 近くにあるをうれしみて寝る」と刻まれ、

『放浪の歌人-吉井勇は、昭和20年10月(60歳)から23年8月まで、孝子夫人とともに八幡月夜田にある宝青庵(ほうしょうあん・通称紅葉寺)で暮らした。

勇は、八幡での2年10ヶ月を「人生行路にようやく光明が射しはじめてきた時期」であったと回想している。

終戦による文学上の自由の回復と、出版会の活況が勇の文筆意欲を高め、この期間に雑誌などの原稿を多く書くほか、歌集を九集、小説三編を出版しており、

23年1月に宮中歌会始の選者に、8月には日本芸術院会員となり、歌壇の頂点に到達した感があった。その歌境は、人生の幾多の起伏を経て沈潜した枯淡味が増し、日常の生活詠には自然と人間に対する勇の深い愛情を読みとることができる。

とくに歌集「残夢」には松花堂庭園をはじめとして、八幡の風物と人々の暮らしを詠んだ五百余首が収められた。

勇の足跡は、その作詞になる「八幡音頭」として市民に愛誦され、踊り継がれており、男山団地内の地名に「男山吉井」として残されている。

昭和60年10月、八幡市の「やわた文学碑建立事業」の第一号として吉井勇歌碑が除幕された。昭乗といへる隠者の住みし庵 近くにあるをうれしみて寝る  勇』との説明文が記されている。

                      出典:【八幡と吉井勇の説明文】より