立石一真旧邸から、さらに西に行くと、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の父である、文徳天皇の田邑陵がある。

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そこに至るまでの道の両側に、造園業を営む家々が続き、さらに文徳天皇陵を越え、山越通沿いに周山街道までに、造園業者が並ぶ。

これは江戸時代に、鳴滝・山越・福王子の地区が植木屋仲間四組の一つとして栄えていた名残なのである。

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クリックで大きくなります 文徳天皇田邑陵には、山越に向う道から少し北に入り参道を奥に、文徳池を眼下に見て陵墓へと至る。文徳天皇の陵墓は田邑陵に葬られたとあるが、その場所はよく分からないのである。幕末に、この地が田邑陵と推定され、それが宮内庁によりここが文徳天皇の田邑陵として定められたのである。

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文徳天皇は、平安時代前期の第55代の天皇で、在位期間は8年である。

承和の変で、皇太子であった恒貞親王が廃されると、藤原良房の後ろ盾で立太子となり、仁明天皇に皇位を譲られ、23才で即位をするのだが、

藤原良房の権力が益々強くなると、思うような政治も出来ず、第一子の惟喬親王に譲位を考えるも、良房の娘が生んだ第四子の惟仁親王が立太子となり、56代の清和天皇となる。

31才で突然の病にて急死をするのだが、これは藤原良房の画策による暗殺ではないかとも言われている。