鳴滝に住んだ映画関係者で、脚本家や映画監督以外では、映画俳優に市川雷蔵がいる。

(写真は実際の住居跡ではなく、こんな風景のなかにあったのだというのを、感じてもらいたいと思うのである。)

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市川雷蔵は歌舞伎役者から、大映の映画俳優に転じた人であり、昭和6年(1931)に京都市に生まれ、15才の時に初舞台を踏む。

昭和26年(1951)に市川壽海の養子となり、8代目の市川雷蔵を襲名する。

雷蔵は姓名判断に凝っていて、出生時は、亀崎章雄(かめざき あきお)、その後、竹内嘉男(たけうち よしお)に変え、壽海との養子縁組に際し、太田吉哉(おおた よしや)に改名をしている。

歌舞伎界では大部屋扱いであり、そんな中、大映からの誘いに応じて映画俳優となり、昭和29年(1954)に「花の白虎隊」で銀幕デビューをする。

昭和30年(1955)に公開された「新・平家物語」で、雷蔵は平清盛を演じるのだが、この作品が雷蔵の評価を一変させるのである。

さらに昭和33年(1958)に、市川昆が撮った「炎上」で、雷蔵は一躍トップスターへと躍り出るのである。

昭和38年(1963)から昭和44年(1969)まで12作造られた「眠狂四郎」シリーズが雷蔵の代表作となり、

多くの俳優が狂四郎を演じているのだが、雷蔵狂四郎は原作の狂四郎を映画のなかに浮びあがらせて、雷蔵を抜きにしては狂四郎を語ることは出来ないのである。

順風満帆に見えた雷蔵も、昭和43年(1968)に直腸癌がみつかり、本人には知らされないままに手術をし、

その後、「眠狂四郎悪女狩り」と「博徒一代 血祭り不動」の撮影をするのだが、立ち回りの激しい動きが出来ず、

吹き替えの役者が演じ、狂四郎の後姿や斬られた人を映すというテクニックで乗り切っている。

この2本の映画が封切られた後に体調を崩し、同年7月17日に37才という、油の乗りきった時期になくなっている。

雷蔵の映画の脚本にも、八尋不二が手掛けたものも多くあり、その因縁は深いものがある。

因縁といえば、勝新太郎との比較である。勝とは大映同期入社であり、雷蔵が歌舞伎界から、勝が長唄界からで、いずれも新しい世界に飛び込んでいる。

「花の白虎隊」には二人して出演しているのだが、勝はその後の、昭和36年(1961)の「悪名」や37年の「座頭市物語」で、雷蔵と肩を並べるようになる。

勝は、朝吉や市を演じても勝新太郎であり、これは映画の王道で、昔ならば、長谷川一夫、今では、吉永小百合といったところであろうか。

しかし市川雷蔵は役によって姿を変え、眠狂四郎を演じたときなどは、監督によって狂四郎を演じ分けたという。

雷蔵は生涯159本の映画に出演し、37才という若さでなくなるのであるが、今も雷蔵を愛する人は多く、その命日には雷蔵主演の映画を上映し、雷蔵を偲んでいるのである。