八尋、稲垣、山中と続いたので、ここで「鳴滝組」のことについて触れておこう。

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「鳴滝組」とは、昭和9年(1934)に、この鳴滝に住んでいた若い映画人である。

「山椒大夫」の八尋不二、「大菩薩峠」の三村伸太郎、そして藤井滋司の脚本家3人と、

「無法松の一生」の稲垣浩、「丹下左膳余話・百万両の壺」の山中貞雄、そして滝沢英輔、鈴木桃作の監督4人、そして助監督の萩原遼の8人によって結成された、脚本家集団である。

8人それぞれに会社が違い、年齢も三村が36歳、鈴木が33歳、滝沢が31歳、八尋が29歳、稲垣が28歳、藤井が25歳、山中が24歳、萩原が23歳と皆若かったのであった。

時代は、サイレント映画(映画から音は出なく、活弁士という人が俳優の台詞から、状況の説明までをこなしていた)から

トーキー(音の出る現在の映画)への移行期であり、「鳴滝組」は時代劇の台詞を、現代語にしたことで、映画界に一大改革を起こしたのである。

その「鳴滝組」が共同執筆した脚本のペンネームが「梶原金八」なのである。

梶原金八が脚本を手掛けた映画が当り出すと、それを知らない松竹の城戸四郎が、梶原金八の引き抜きに乗り出したというのは、有名なエピソードである。

しかし、山中貞雄と滝沢英輔が東京に去り、山中が赤紙で戦地に赴き、翌13年(1938)に中国の戦地で病死すると、「鳴滝組」も「梶原金八」の名も、3年の活動に幕を降ろすのである。

梶原金八のクレジットを残した作品は22本を数え、日本映画史に一石を投じたのである。