稲垣や八尋らと同時代を生きたのが、山中貞雄である。

(写真は実際の住居跡ではなく、こんな風景のなかにあったのだというのを、感じてもらいたいと思うのである。)

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山中貞雄は、明治42年(1909)に京都の東山に生まれ、大正11年(1922)に、京都市立第一商業学校に入学している。同級生に藤井滋司、1級上にマキノ正博がいる。

子供の頃から大の映画好きで、昭和2年(1927)に学校を卒業後は、マキノ正博を頼り、映画界に足を踏み入れる。

そこで助監督を務めるも要領が悪く、1年後に嵐寛寿郎プロに移籍させられ、そこで書いた「鬼神の血煙」で脚本家デビューをする。

昭和7年(1932)に「磯の源太・抱寝の長脇差」で嵐寛寿郎が山中を監督に抜擢し、この作品が映画評論家達に絶賛され、22才の若さでその才能が開花する。

その後、嵐プロから日活に移り、数々の作品を撮っている。山中もまた鳴滝組に所属し、梶原金八のペンネームで22本の脚本を手掛けている。

昭和12年(1937)に東京に移り、P.C.L映画で「人情紙風船」を撮るが、封切り前日に赤紙(召集令状)が届き、封切りを見ないまま戦地に赴くのである。

中国北支那方面第2軍に属し、南京攻略戦にも参加するのだが、昭和13年(1938)9月に、中国の野戦病院で赤痢のために、28才で戦病死するのである。

鳴滝組の8人のなかで、唯一応集され戦地で命をなくしている。

5年間で28本の作品を撮るが、その殆どは消滅をし『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3本が現存する作品であるのだが、

いずれも戦後の公開であり、GHQの検閲により、オリジナルの作品からカットされ、山中が撮った作品のままであるかは疑わしいのである。