鳴滝に住んだ映画人で良く知られた人物の住居が比較的近くに並んでいたようである。 |
今は故人となってしまったが、映画監督の稲垣浩と山中貞雄、そして映画俳優の市川雷蔵である。 |
夫々の家もなくなり、今は市川雷蔵の旧宅が残るのみである。 |
写真は実際の住居跡ではなく、こんな風景のなかにあったのだというのを、感じてもらいたいと思うのである。 |
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稲垣浩は、明治38年(1905)東京に生まれる。 |
父が新派の俳優だったことから、小さい頃から舞台に立ち、大正12年(1923)に日活から銀幕デビューをするのだが、 |
脚本から映画作りに興味を持ち、月給150円の俳優から、25円の助監督として松竹に移り、その後、片岡千恵蔵プロに移り監督として多くの時代劇を撮るのである。 |
昭和6年(1931)「瞼の母」が大ヒットをする。 |
昭和7年(1932)トーキの黎明期には、鳴滝に住んでいた若手映画人らと共に「鳴滝組」を作り、「梶原金八」の名で、シナリオを手掛けている。 |
戦前は日活で映画を撮り、この時の、昭和18年(1943)に「無法松の一生」を撮りあげるのだが、 |
人力車夫の松五郎が軍人の未亡人に愛を打ち明けるシーンが、戦時下の時局に合わないとカットされている。 |
戦後は東宝で、三船敏郎を主人公として映画を多く撮り、 |
昭和33年(1958)に「無法松の一生」のノーカット版を三船の主演で撮り直し、ベネチア国際映画祭のグランプリを獲得し、自らの代表作となるのである。 |
黒澤明とともに東宝の二枚看板として、時代劇を主に、生涯で34本の映画を撮っている。 |
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