聖護院陵墓と智成親王陵に参って、再び上御陵橋を西に渡り、志賀越道まで戻ると「霊芝山乗願院」がある。

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乗願院は、比叡山三千坊の一つで、織田信長の叡山焼討ちで消滅するが、慶長13年(1608)に再建されるが、

幕末の大火で堂宇を焼失してしまうのだが、上賀茂神社の神宮寺観音堂が、明治初期の廃仏毀釈で取壊されるのを聞き、ここに移築をしたものである。

この建物は寛永5年(1628)の造営になるものだという。

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その駒札によると、

『浄土宗に属する。寺伝によれば、もと延暦寺の支坊であったが、元亀2年(1571)、織田信長の叡山焼討ちの際、焼失したといわれる。

しかし、慶長13年(1608)に信誉上人によって再興され、それ以後、江戸時代を通じて、照高院(のちの北白川宮)の御霊所(みたましょ)となり、

照高院四代道寛法親王によって乗願寺山が寄進されるなど数々の保護が加えられた。乗願寺山には、照高院の墓地があり、寄進以降は当寺が管理することとなった。

本堂は、もと上賀茂神社境内にあった神宮寺観音堂を譲りうけ、明治2年(1869)に移築したものである。

日光や風雨を防ぐための戸である蔀(しとみ)は珍しいものであり、、蛙股(かえるまた)の彫刻ほか寛永期(1624~1643)の建造物の特徴がよく見られる。

なお、明治に至って照高院は廃絶したが、道晃法親王らの位牌は、現在に至るまで当院において安置されている。』

                      出典:【乗願院の駒札】より