智成親王陵から北東に100mほど坂道を行くと、小高い丘の中腹に「聖護院宮陵墓」がある。

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ここは照高院歴代の院主を祀る陵墓であり、照高院が聖護院の退院所であったことから、この墓所は聖護院宮陵墓と呼ばれている。

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ここに祀られている歴代の院主は、

道承(どうしょう)法親王
元禄8年(1695)に、伏見宮邦永(くになが)親王の子として生まれ、7才で東山天皇の養子となり、同年に聖護院に入り親王となる。
以後、園城寺長吏、熊野三山検校また新熊野検校となるが、正徳4年(1714)20才の若さでこの世を去っている。

忠誉(ちゅうよ)入道親王
享保7年(1722)に、中御門天皇の第三子として生まれ、10才で親王宣下を受け、翌、享保18年に聖護院にて出家をし、
以後、聖護院門跡、園城寺長吏を歴任し、准三后(じゅさんぐう)を授けられ、天明8年(1788)67才でこの世を去っている。

増賞(ぞうしょう)入道親王
享保19年(1734)に、有栖川宮職仁(よりひと)親王の子として生まれ、桜町天皇の養子となり、12歳で実相院にて出家をする。
以後、聖護院に入り、園城寺長吏、護持僧などをつとめ、明和7年(1770)37才でこの世を去っている。

盈仁(えいにん)入道親王
明和元年(1764)に、閑院宮典仁(すけひと)親王の第七王子として生まれ、後桃園天皇の養子となり、聖護院門跡の中誉入道親王の弟子となる。
以後、園城寺長吏を経て聖護院門跡を務め、文政13年(1831)67才でこの世を去っている。

万寿宮(ますのみや)
文政3年(1820)に、伏見宮貞敬親王の子として生まれ、その後、聖護院に入ったというが詳細は分かっていない。文政13年(1831)11才でこの世を去っている。

聖護院宮嘉言(よしこと)親王
文政4年(1821)に、伏見宮邦家親王の第二皇子として生まれ、光格天皇の養子となり10才で聖護院に入り得度する。
明治維新を迎え還俗し、聖護院宮を称するが明治を迎える直前の、慶応4年(1868)48才でこの世を去っている。
聖護院宮家は異母弟の智成親王が継承し、その後、北白川宮と改称されている。