照高院宮があった北白川仕伏町は、谷崎潤一郎が京都を去ってからも、時々、京都に戻り滞在をした渡辺家があった所である。

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クリックで大きくなります 谷崎は、昭和24年に京都下鴨糺の森の隣に「潺湲亭(せんかんてい)」と名付けた邸宅に転居するが、京都の気候に耐えられず、7年後の昭和31年に熱海へと移っている。しかし谷崎は京都を愛し、蒸し暑さと底冷えのない、春と秋には1ケ月程を京都で過ごしている。その時に滞在したのが、この北白川仕伏町にあった渡辺家であった。

渡辺家は、谷崎の三人目の妻である松子が、別れた夫との子であった清冶を、妹・重子夫婦に養子に出し、

その清冶が結婚をして出来たのが、たおり(谷崎からみると孫となる)で、谷崎はこの孫を大層可愛がったという。

この渡辺清冶が新婚時代に住んだのが、この北白川仕伏町の家であり、この頃は自動車を降りて3~4丁(327~436m)ほど歩かなければならなかったようで、

家の前は一面の花畑で菜の花が咲きほこったというのだが、今は渡辺家もなく、一帯は住宅地となり谷崎が住んだ頃の風景とは一変してしまったのである。