石造りの萬世橋からさらに白川を上流に、次に架かる橋を「御殿橋」という。

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御殿橋という名の由縁は、志賀越道からこの橋を渡り、その突き当りにあった「照高院殿」への橋であることから、この名が付いたという。

何の変哲もない橋なのだが、橋のたもとに「御殿橋」の石碑が、その名を留めその昔は、ここも立派な石橋が架かっていたのであろうか。

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御殿橋を東に渡り、小さい路地を奥へと歩くと、道は少しずつ登りとなる。道は東に突き当り、さらに坂道を登って行くと京都朝鮮学園という学校のグランドに至る。

これ以上は進めないので、照高院跡を探し坂を引き返そうと振り返った途端、目に入ったのが、この石垣である。ここに照高院宮御殿が建っていたのである。

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照高院は、もと方広寺近くに開基されるのだが、方広寺鐘名事件に巻き込まれ廃寺となる。

元和5年(1619)に、伏見城二ノ丸の松丸殿を、ここ北白川の地に移築し再建される。

その後、聖護院の退院所となり門跡寺院として継承されるが、最後の院主である智成親王が還俗して北白川宮家を起こし、

宮家が明治8年(1875)、東京に移るに際し250年続いた照高院の堂宇は取り壊されてしまい、

今は、その石垣が残るのみとなり、ここにそんな建物があったことを偲ぶよすがもないのである。