京都国際ホテル前にある二つ目の石碑は「堀川天皇里内裏址」である。

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この辺り一帯が73代堀川天皇の御所があった所である。駒札によれば、

『二条通と堀川通によって画された東西120米、南北250米の地域は、古の堀川院の遺址であって、正式には左京二坊九、十町に當たっている。

初めそれは、関白・藤原基経(836~891)が造営した大邸宅であった。彼は主に公式な行事のため本邸を用いた。

”ここで宴会が催された時などには、公卿たちの牛車は、堀川の東側に立てられ、牛は二条堀川の橋の欄干に繋がれていたと言う。

この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。

基経の没後、堀川院は息子の左大臣・仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白・藤原兼通の所有に帰した。

兼通の娘の媓子は、円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。兼通は息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。

堀川院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀川天皇の御所(里内裏)となっていた時期であって、

天皇は嘉承2年(1107)7月ここで崩じた。その委細は『讃岐典侍(さぬきのすけ)日記』に見事に叙べられている。/平成元年7月 文学博士 角田文衛』

                     出典:【堀川院の遺址の説明文】より

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堀川天皇は平安時代後期の73代の天皇で、8才で父の白河天皇から譲位され即位する。

堀川天皇は歴代の天皇のなかでも賢帝といわれ、政務にも積極的に取組んだが、白河上皇の院政による関与が強くなると、管弦楽と和歌の世界に逃げ込んでしまうのである。

もともと病弱で29才という若さで在位中に亡くなるのである。

その後、鳥羽・崇徳・後白河と続いてゆくのだが、平家・源氏の台頭で武士の世へと移り変わってゆくのである。