最勝院の境内には、源三位入道源頼政の墓といわれる宝篋印塔がある。 |
その駒札によると、『源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(齢七十六歳)。』 |
出典:【源三位源頼政公の墓 宝篋印塔の駒札】より |
源頼政は、後白河天皇と崇徳上皇が争った「保元の乱」と、平清盛と源義朝が雌雄を決した「平治の乱」のいずれにも勝者の側に付き、 |
平清盛の信頼を得て、源氏としては破格の従三位のくらいまで昇りつめた人物であるのだが、 |
齢七十を越えた頃から平家の横暴に抗する為に、以仁王と結び平家打倒を企て、平氏討伐の以仁王の令旨を全国に伝えたが、 |
その計画が露見することとなり、戦備の整わぬままに挙兵することとなり、平家と宇治橋の合戦に破れ、以仁王を奈良に逃がし、平等院にて自刃して果てるのである。 |
以仁王もまた、奈良の興福寺へと逃れる途中に捕われて命を落すのである。 |
頼政の辞世の句として、 |
「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」 |
が残されている。 |
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