平等院には、治承の乱に関わった二人の墓がある。一人は、最勝院にある源頼政。もう一人は、浄土院にある太敬庵通園である。 |
![]() |
![]() | 浄土院の通園の墓にある駒札によると、『通円家の初代は、古川右内といい、源頼政の家臣でした。頼政から「政」の字を賜って太敬庵通園政久と名乗り、平治の乱の直後、宇治橋の東詰に庵を結びました。治承4(1180)年来政が以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げると、頼政のもとへ馳せ参じて宇治橋の合戦で平家の軍と戦い、討ち死にを遂げました。この主従関係を物語った狂言として「通円」があり、たびたび公演されています。』 |
出典:【通円家 初代太敬庵通園の墓の駒札】より |
とあり、通園はもと古川右内といい、源頼政の家臣であり、宇治橋の東詰に庵を結んだ後も、頼政を主と仰ぎ |
治承の乱(1180年)には一躍、馳せ参じ共に平家と戦いこの地で討ち死にをし平等院の中に弔われたのである。 |
通園が宇治橋の東詰に結んだ庵は、後に通園茶屋となり、吉川英治の宮本武蔵の中で、 |
お通が武蔵を探して旅する途中に、この茶屋で休むという情景が描かれているのだが、その茶屋は今も宇治橋の東詰にあるのだが、生憎その茶屋を写した写真は手元にないのである。 |
コメント