豊臣秀吉が京の都を改造したときに、洛の内外を区分するために造ったのが、お土居である。

今はその殆どが取り壊されて、僅かに西賀茂・鷹ケ峰・北野などに残るのみとなっている。

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この鷹ケ峰に残るものは、お土居の北西隅にあたるものであり、ここを含め9ケ所に残るお土居跡は国の史跡に指定され保存されている。

お土居は、東は賀茂川に沿い、北は紫竹上長目・上堀川町から紙屋川の東岸を南に下り、四つ塚・東寺の辺から、九条をへて賀茂川に出る、総延長22.5Kmにのぼる、土塁と堀で囲まれたものであった。

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御土居の説明板によると、

『御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、

鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。

土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。

多数の人々を動員して築造した御土居ではありましたが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、

やがて近代になると開発により次々と壊され、北辺を中心に部分的に残存するのみとなりました。

ここ鷹ケ峯に残る御土居は、御土居の北西隅にあたる重要な部分であり、京都の沿革を知るうえに、

また広く我国における都市の発達をたどる重要な遺跡として、市内に残る他の8箇所とともに、国の史跡に指定されています。』

                     出典:【史跡 御土居の説明板】より

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お土居の断面は、底部が約20m、頂部が約5m、高さが約5mの台形状をした土塁である。土塁の外側に沿って堀が、幅約10m、深さは最大で約4mであり、紙屋川や賀茂川に堀の役目をもたせた所もあった。

その目的は、防塁とも治水の為の堤防とも言われるが、どこに秀吉の意図があったのか、今ではよく分からない。

ただ一つ、土木工事好きの秀吉が、その権力を世に示すために着手したものではないかと、自分は推察しているのである。

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その御土居の前には、鷹峯名物の「御土居餅」を造る、都本舗光悦堂がある。御土居餅の由来を光悦堂の栞にみると、

『天正19年(1591)豊臣秀吉が長い戦乱のため荒れていた京都に都市計画を行ったとき、外敵の来襲にそなえ、その防塁として築いた土塁(土居)である。

東は賀茂川、西は紙屋川、南は九条、北は鷹峯と延長23Kmにおよび、これによって京都8ケ所が京都の沿革を知るうえに、

又、広くわが国における都市計画の発達を知るうえにきわめて重要な遺跡として史跡に指定されています。

其の土塁(土をもって囲ったお土居にみたてた)にちなんで江州米上質の羽二重餅に小豆を包みきな粉をふりかけ、あたかも小さな土塁にみせかけて、美味しく作り上げました。

                    出典:【鷹峯名物 御土居餅の由来】より