光悦寺には、本阿弥光悦とその一族の墓所がある。

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本阿弥光悦は、江戸時代初期の書家・陶芸家で茶の湯などに諸芸全般に関わりを持ち、

特に書は、近衛信尹・松花堂昭乗と並び、寛永の三筆と称されるほどであった。

本阿弥光悦は、刀剣の鑑定と研磨を家業とする家の長男として生まれるが、それよりも諸芸全般に秀でており、

時は豪華絢爛の桃山文化から質実剛健を旨とする徳川文化へ移る転換期であった。

後水尾天皇など朝廷ともつながり、この時期の文化形成に深く関わりを持った人物であった。

元和元年(1615)に徳川家康から、この鷹ケ峰の地を賜り、この地に一大芸術村を造りあげたのである。

一説によれば、家康が光悦と朝廷の結びつきの深さを懸念して、洛外のこの地に追いやられたとも言われるが、

この地で後々の芸術家に多大なる影響を与えたのが、本阿弥光悦なのである。

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光悦寺にはまた、本阿弥光瑳・光甫の墓とともに、一族の墓所もある。

本阿弥光瑳は、光悦の養子なのだが、刀剣に関する技は当代随一といわれたほどであった。

光悦とともに鷹ケ峰に移り住むが、60才で光悦と同じ年に没している。

光甫は、光瑳を父にして光悦の孫にあたる。

父より刀剣に関する技術を叩き込まれ、刀剣鑑定・研磨のみならず書画・陶芸にも優れ、茶や香などの道にも精通をする。

父子ならんで光悦寺に眠っている。その横には、本阿弥家一族の墓所もある。