神光院前のバス停から、南にすぐの所に「神光院」がある。 |
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神光院は京の人でもあまり知らないのだが、東寺と仁和寺と並んで「西賀茂の弘法さん」と呼ばれる、京の三大弘法として有名な寺である。 |
弘法大師(空海)が、きゅうりに疫病を封じたことから、毎年7月には「きゅうり封じ」が行われている。 |
東寺や仁和寺と比べて訪れる人もなく、境内は静かで、幕末の女流歌人、大田垣蓮月も晩年をここで過ごしている。 |
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神社の駒札によると、 |
『放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。 |
寺伝によれば、建保5年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。 |
以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。明治11年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。 |
本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。 |
寺宝としては、仏眼曼荼羅図(ぶつげんまんだらず:重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。 |
また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。』 |
出典:【神光院の駒札】より |
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「蓮月尼旧栖之茶所」の石碑と茶室「蓮月庵」が残されているが、大田垣蓮月とは、幕末から明治初期に生きた歌人であり、京に生まれ知恩院門跡の大田垣光古の養女となる。 |
2度の結婚も夫に先立たれ、その後、出家をし蓮月尼と称するようになる。 |
それから、岡崎、大仏、北白川心性寺、聖護院、川端丸太町と度々引越しを繰り返し「屋越し蓮月」とも呼ばれる程に所を変え、晩年の76才に、この神光院に身を寄せ、境内には |
「やどかさぬ 人のつらさを なさけにて おぼろ月夜の 花の下ふし」 |
との歌碑が植え込みの中に、ひっそりと建っている。神光院で10年ほどを過ごし、明治8年(1875)に85才で没する。辞世の句として、 |
「願わくは のちの蓮の 花の上に くもらぬ月を みるよしもがな」 |
が残っている。 |
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