龍安寺から、きぬかけの路を横切って民家の間を抜ける狭い道を東に歩くと、立命館の学舎の横と通り、等持院となる。 |
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京都十刹の一つで、もと仁和寺の一院であったが足利尊氏が、足利氏の菩提寺として中興した。 |
建物は文政年間に再建され、堂内には足利尊氏以下十二代の木像が並んでいる。 |
幕末のころに、浪士が尊氏以下三代の首を斬って三条河原にさらしたということは有名である。 |
寺域は衣笠山を背景とした景勝地にあるが、この山は絹笠山・蓋山・絹掛山などとも書き、宇多法皇が仁和寺にいたとき、この山に白絹を張って雪見をされたことから、この名が付いたという。 |
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駒札によると、 |
『万年山と号する臨済宗天龍寺派の寺院である。 |
もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応4年(1341)に足利尊氏が夢窓国師を開山として中興し、足利氏の菩提寺である中京区三条高倉の等持寺の別院とした。 |
延文3年(1358)に尊氏がこの寺に葬られると、その法名をとって等持院と改められ、その後、本寺である等持寺を統合した。 |
足利氏の菩提所にふさわしく、堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457~60)以来、しばしば火災にあって荒廃した。現在の建物は江戸・文政年間(1818~30)の建立である。 |
方丈は、元和2年(1616)福島正則が建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられ、霊光殿には尊氏の念持仏といわれる利運地蔵像を安置し、左右壇上には足利各将軍と徳川家康の木像を安置する。 |
境内には尊氏の墓と伝える高さ5尺の宝筐印塔のほか、夢窓国師作庭といわれる東の心字池と芙蓉池を中心とした池泉回遊式庭園、足利義政好みと伝えられる茶室清蓮亭などがある。』 |
出典:【等持院の駒札】より |
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