二条殿跡の石碑から西に少し歩くと、もと龍池小学校(現、京都国際マンガミュージアム)の姉小路通に「此附近 徳川時代金座遺跡」の石碑が建つ。

 クリックで大きくなります

クリックで大きくなります 徳川幕府の金座とは金貨を鋳造した所で、大判(十両判)や小判(一両判)などを造った所である。家康は関東に移封された、文禄4年(1595)の頃から、大判小判の鋳造を目論見、江戸と駿河で金貨の鋳造を始める。

慶長5年(1600)に関ヶ原の戦で勝利すると、全国で使える貨幣として、江戸だけでなく京都や伏見・佐渡にも金座を設けるのである。その京の金座がここにあったのである。

その後、佐渡の金座は享保年間に、京の金座も寛政年間に」閉鎖され、江戸に集約されるのである。

今は両替町という名に、その跡の名残を留めているのみである。