勧修寺に着く頃には4時半を過ぎていた。境内には数人の人しかいず、静かな勧修寺であった。

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勧修寺の読み方はというと、自分は「かんしゅうじ」と読んでいたのだが、正式には「かじゅうじ」と読むらしい。

昌泰3年(900)に醍醐天皇が藤原胤子(いんし)を弔うために開いたと伝わる門跡寺院である。

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庭園はすでに開園時間をすぎていて中には入れなかったが、そこには、宸殿・書院・本堂などがあり、

「宸殿」は、延宝3年(1676)造営の明正天皇の明正院御所御対面所を、元禄10年(1697)に下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺きで、内部は書院造である。

「書院」は、延宝元年(1673)より建てられた後西天皇の後西院御所の旧殿を、貞享3年(1686)に下賜されたものという。入母屋造、杮(こけら)葺きで、一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られている。

「本堂」は、寛文2年(1662)造営の、霊元天皇の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて、同12年に潅頂道場として建築されたものである。

ただし、これらの建物は総て非公開となっている。氷室池を中心にした氷池園があり、杜若、花菖蒲、睡蓮、蓮などが初夏から夏にかけて楽しませてくれるのである。

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勧修寺の駒札によると、

『真言宗山階派の大本山で、平安中期の900年に醍醐天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔うために、胤子の母の実家である宮道家(みやじけ)邸宅を寺に改めたのが始まりといわれる。

天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(し)号をとって勧修寺と名付けられ、のちに醍醐天王の勅願寺となった。

代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。

本堂は、霊元(れいげん)天皇より仮内侍所を、書院(重要文化財)と宸殿は、明正(めいしょう)天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。

書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。その周りには樹齢約七百年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。

氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。』

                      出典:【勧修寺の駒札】より

 クリックで大きくなります

クリックで大きくなります 今昔物語のなかに、藤原高藤と宮道列子の出会いが伝えられる。高藤は鷹狩りの途中、雨宿りのため後に勧修寺となる、宮道弥益の屋敷を訪ね、そこで弥益の娘・列子を見初めるのえある。末を約束し、一夜の契りを結ぶ。

その後逢瀬の時もなく時は過ぎるが、6年後に再会したときには、列子に娘がいた。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母となるのである。

また高藤の子孫である紫式部は、この話をもとに、源氏物語「明石の君」を書いたという。