随心院には、もうひとつ小町に所縁のものがある。それが小町に寄せられたラブレターを埋めたという文塚である。

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随心院の裏になるであろうか、東側の小道を入っていくと、石の鳥居があり、その先に「小町庭苑」の石碑が建ち、その奥左に行くと「小町文塚」の五輪塔が建っている。

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多くの貴公子から寄せられた文章を埋めた塚と言い伝えられている。文を寄せた貴公子のなかに、深草少将がいる。

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クリックで大きくなります 小町に言い寄った男性は数多けれど、そのなかでも良く知られているのが、深草少将である。深草少将は伏見の欣浄寺(24号線の撞木町の遊郭跡から師団街道を北に、伏見税務署が見えてくると、そのすぐ横に欣浄寺の案内が見え、ここを右に入ると「欣浄寺(ごんじょうじ)」である。)辺りに住み、そこから小町のもとに通うのである。

小町はその美貌と教養の高さで世の男性を虜にしたらしく、新古今集に、

『おもいつつ 寝ればや人の 見えつらむ  夢と知りせば 覚めざらましを』
『いとせめて 恋しきときは むばたまの  夜の衣を 反してぞ着る』

など、世の男どもをぞくっとさせるような歌を詠んでいる。それに魅せられたのが、深草少将である。

深草少将は、小野小町に恋焦がれ、伏見の深草の里から、小町の住む山科の随心院に、
(伏見からその距離、約5Km伏見街道を通り、京都医療センターの横を通って、ひと山越して、山科に向かった道。大津街道とも)

百日の夜通いつめたら、その思いを叶えてあげると小町に言われ、毎夜々々、雨の日も風の日も伏見から山科の小町のもとに通うのである。これを深草少将の百夜(ももよ)通いという。

しかし、女心は裏腹で、百日も毎夜通うことは出来ず、諦めるであろうと思っていたのだが、あにはからんや毎夜々々通ってくる。

百日の夜が近づくにつれ、どうしようかと小町は不安になる。とうとう99日めの夜が終わり、明日は百日めという前の晩、

小町は神に祈り「どうか明日は大雪で、ここには来れないように」と願を掛ける。

神も無情でこの願いを聞いて、百日目に大雪を降らせ深草少将は百日目の夜を目の前にして、小町の所には辿り着けず、命を落としてしまうのである。

さも女心は非情なものだと思うのだが、昔も今もこれは変わらない女心なのであろうか。

深草少将たる人物は、実在の人物ではなく、室町時代に世阿弥ら能作者などが、小野小町を引立たせるために創作をしたもので、伏見の欣浄寺をその住まいとしたものだというのだが、

そのモデルは、良峰宗貞(よしみねのむねさだ) といい、出家しては遍照(へんじょう)と名乗った人ある。百人一首に、

『あまつ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ』と詠んだ歌が残っている。

欣浄寺には、少将の遺愛の井という「墨染の井」が残っており、そこで西条八十は、

『通ふ深草 百夜の情 小町恋しの 涙の水が 今も湧きます 欣浄寺』と詠んでいる。